今日の説教題はまるで兄弟の名前のようですが、言うまでもなく「疑心暗鬼」をもじったものです。
説教を英語に通訳してくださっている姉妹(スリランカ出身)から、「難しい!」と言われてしまいました。
「疑心暗鬼」って、英語では何と言うのでしょうか。週報はこちらです。
聖書箇所 ヨハネの福音書20:19-23
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
序.
「疑心暗鬼」という四文字熟語があります。
心に疑いを持っていると、ただの暗闇に鬼が潜んでいるように思えるという意味ですが、中国の古い本にこんな逸話が書いてあります。
ある男の大切にしている斧がなくなった。そこで一生懸命捜すが、見つからない。
そこでふっと思い当たったのは、このところ息子の様子がいつもそわそわしていたということ。
それ以来、息子が取ったのではないかと疑いの目で見るようになる。
ところが代わりの斧を持って、いつも木を切っている場所に行くと、斧がそこにあって、ただこの親父が置き忘れていただけだった。
やれやれ、息子に悪いことをしたと思って家に帰ると、息子はどこもそわそわなどしていない。
自分勝手な想像が、いかに人を怪しく見せてしまうかということですが、みなさんもそんな経験があるのではないでしょうか。
1.
イエス様の弟子たちも、夕暮れの戸をしめきった家の中で、疑心暗鬼に陥っていたに違いありません。
彼らは人生の目標であり、またよりどころであったイエス・キリストを失いました。
集まっていたのは互いに励まし合うためというよりは、戻る場所がなかったということでしょう。
夕暮れ時、彼らは扉を閉め切って、ただ息をひそめていました。
イエスを十字架へと追いやったユダヤ人たちが、次は自分たちもなきものにしようと今も死に物狂いで探し回っているのかもしれない。
こうして息をひそめて時間がすぎるのを待つしかないのか。だがいったいいつまで待てば良いのか。
いや、時間が立てば立つほど、この中から、あのユダのように仲間を売って自分だけ助かろうとする者が出てくるのではないか。
そしてもしかしたら、自分がそうなってしまうのではないか。
締め切った扉は、彼らにとって出口が閉ざされ、明るい未来が期待できない現実の象徴です。
しかしイエスさまは、突如彼らのまん中に現れました。
現実の扉は開かれなくても、イエスさまはその愛する者たちに、確かに解放の光を与えてくださるのです。
そしてイエスさまはこう言われました。「平安があなたがたにあるように」。
イエスさまはすべてを知っておられます。なぜユダヤ人を恐れるのか、なぜ信仰がないのか、とは言われませんでした。
疑いの心を持つ者に必要なのは確信です。恐れを持つ者の必要なのは平安です。
だから、こう言われました。「平安があなたがたにあるように」。
その場だけで消え去ってしまう人の平安ではなく、神だけが与えることのできる特別な平安です。
私たちはあまりにも大きな痛み、悲しみ、苦しみのゆえに周りに対して完全に心を閉じてしまうときがあります。
イエスさまはそれを無理にこじあけるようなことはしません。
しかし友の慰めさえも受け入れることのできない心の中にも、イエスさまは入ってきてくださいます。
それがイエス・キリストだけが与えることのできる、完全なる平安です。
2.
「平安あれ」という言葉の後、イエスさまは、その手とわき腹を彼らにお見せになりました。
弟子たちがそこに見たものは何でしょうか。血がこびりつき、釘と槍に突き通された穴で向こう側が見えるような、痛々しい生傷です。
彼らが正常な感覚であれば、思わず目をそむけたことでしょう。
なぜなら、イエスさまをそのような苦しみに引き渡したのは誰だったか。
イエスさまがユダヤ人に捕らえられたとき、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのは誰だったか。
イエスを知らないと言うくらいなら、一緒に死にますと誓ったにもかかわらず、のろいにかけてまでイエスを知らないと言ったのはどこの誰だったか。
イエスさまの傷跡は、それを見る弟子たちひとり一人の心に重く突き刺さる、無言の圧力を持っていました。
しかし聖書にはこう書かれています。弟子たちは主を見て喜んだ、と。
私たちにとっても同じです。聖書とは、決していつもわかりやすい慰めや励ましの言葉を与えてくれるものではありません。
むしろ聖書の多くは、とても厳しい言葉です。私たちの罪をえぐり出し、みにくさをさらけ出すような箇所も多くあります。
しかし不思議なことに、そこには、その痛みを突き抜けての喜びがあるのです。コリント人への手紙には、このような言葉があります。
「世の悲しみは死をもたらすが、神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる」。
確かに聖書は私たちの心をうちのめすことがあるでしょう。自分の罪について、みにくさについて悲しみをもたらすこともあるでしょう。
しかし決して悲しみで終わりはしません。その悲しみの先に、世が決して与えることのできない、慰めがあります。励ましがあります。
弟子たちはまさにそれを経験したのです。
イエスさまの赤黒い手とわき腹の穴ぼこは彼らの過去の失敗が描かれています。
しかしイエスさまが今ここに現れてくださったこと、そして平安あれと語りかけてくださったこと。
それを通して、神様は彼らの過去を暗い過去で終わらせず、明るい過去へと変えたのです。
疑心暗鬼という言葉が、疑いによってただの闇を鬼の巣窟として映し出すものだととすれば、
キリストが与える愛と恵みは、罪の巣窟である私の過去を、光へと映し出します。
過去を変えることはできません。しかし過去をキリストの光によって照らし直すことはできます。
どんな罪も、どんな失敗も、キリストはすべて知っておられます。
そして私たちを救いに至る悔い改めへと導くための必要な経験として新しい意味づけをしてくださる。それがイエス・キリストの救いです。
3.
そしてイエスは、弟子たちに新しい使命を与えました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と。
「父がわたしを遣わしたように」とはどういうことでしょうか。
イエスがたどったような厳しい道を弟子たちもたどるということでしょうか。もちろん、それもあるでしょう。
しかしもっと大切なことは、イエスがいつも父なる神とひとつであり、だからこそ十字架の死に至るまで父のみこころに従い通したように、
私たちもまた、イエスさまとひとつである喜びをいつも抱えながら、この世に遣わされていくということです。
しかしイエスの平安が人の与える平安とは違うように、私たちの喜びも人の与える喜びとは違います。
それは聖霊、つまり御霊が与えてくださる喜びです。イエス様は、弟子たちに息をふきかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました。
私たちが世に遣われていくために、喜びの感情以上に必要なものを与えてくださったのです。それが聖霊です。
私たちは、イエスの御名を信じて救われた時に聖霊を受けます。
というよりも事実は逆で、聖霊を受けなければ、つまり聖霊によらなければ、イエスは主であると信じ告白することができないのです。
このときの弟子たちは、イエス様が部屋の真ん中に現れてくださるまで、自分たちがイエスの弟子であることさえも疑っていました。
イエス様を見捨て、今もこうして隠れ、そしてこれからもイエスの弟子だと決して公言することなど夢のまた夢。
しかしイエス様は彼らにもう一度、聖霊によってあなたがたは救われ、聖霊によって弟子とされているのだという確信を与えてくださったのです。
私たちは証しをするたび、充実感よりは失望感に襲われてしまうことがあるでしょう。
自分のような者が語った所で、何も起こらないとはじめからあきらめてしまっているかもしれません。
しかし私たちはキリストの弟子です。イエスは、驚くべき特権を私たちに与えてくださいました。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」。
私たちは恐れる必要はありません。イエスが私たちひとり一人の中におられます。
そして私たちがキリストを救い主として告白するならば、それは聖霊が私たちの中に生きておられる証しです。
疑いや恐れではなくて、喜びと確信をもって、このイエス・キリストを人々に伝えていきましょう。