先週金曜日の夜遅く、私の母が天に召されました。
14年前、脊髄小脳変性症という難病にかかり(「1リットルの涙」と同じ病)、言葉を発することもできなくなっている中の死でした。
今はまだ何も語ることができませんが、しばらくしたら言葉をまとめたいと思います。
今日の説教も、「おまえの話はムズカシイからなァ」という昔言われた感想が聞こえてきそうです。週報はこちらです。
聖書箇所 使徒の働き2:1-11
1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
1.
クリスマス、イースター、ペンテコステ。この三つは、教会にとって、決して外せない三大記念日ということができます。
クリスマスは言うまでもなく、神のひとり子イエス・キリストが人として地上に生まれてくださった日。
イースターは、全人類の罪の身代わりとして十字架にかかってくださったイエス・キリストが、死からよみがえられた日。
ではペンテコステは、というと、イエス様ではなくて、聖霊様が弟子たちにお下りになって、教会が生まれた日、となります。
ですからクリスマスやイースターと違って、ペンテコステはなかなか人々に伝えるのが難しい、ということがあります。
というのは、セイレイというと、世の人々は木の精とか雪の精のような、そっちの精霊をイメージします。
ですから、ペンテコステを説明する前に、まずセイレイとは聖い霊と書くんだよというところから始めなければならないからです。
しかも肝心のクリスチャンが聖霊について、三位一体の神の一つという以外にはよくわかっておりません。
中学生の頃、理科の授業で重力について学んだことがありました。
日常の生活で、私たちは1Gという重力を外側から受けており、この1Gという力は、私たちの体をぺしゃんこにするほどの力だそうです。
それでもなぜぺしゃんこにならないかというと、同じ1Gの力が、体の内側から働いているからだ、と。
聖霊は、決して目には見えず、そして自己主張をするお方ではありません。でも私たちが意識しなくても、いつも支えてくださっています。
私たちの信仰生活のあらゆるところ、はじめから終わりに至るまで、聖霊は私たちに人格的に関わっていてくださいます。
人が救いを求めるのも、聖霊が心に働いてくださるからです。聖書の言葉が心に入ってくるのも、聖霊のお働きです。
祈りも、賛美も、礼拝も、すべての信仰の働きは聖霊が助けてくださらなければ人のわざでしかありません。
私がどれだけ一生懸命語っても、聖霊が働かなければ、誰一人心を動かすことはありません。
クリスチャンは、聖霊が私たちの上に働くことを、あたかも雷に打たれたり、炎が体を駆け巡るような経験のように考えやすいものです。
そして自分は今までそんな経験はないから、聖霊をまだ受けていないのではないかと失望する。
あるいは逆にただの感動にすぎないものを聖霊の働きと言って、数日で覚めてしまうと、聖霊が去ってしまったなどと言う。
しかし聖霊は、私たちが意識もしないところで確かに私たちを助け、支えてくださっている方なのです。
私たちがイエス・キリストを信じることができた、ということ、
そして今現に信じているということ、それ自体が、神の働かれる奇跡に他なりません。
ペンテコステとは、教会がこの聖霊によって生まれた日です。信じる者は、誰であってもこの聖霊によって生み出されたということ。
またどんなことがあっても聖霊がその人を見捨てることはない、という約束が始まった日、それがこのペンテコステです。
いま、信じる私たち一人ひとりに聖霊が確かに与えられているという事実を心の中に刻みつけましょう。
自分の信仰を自分で判断して、私なんか・・・・ということはやめましょう。
聖霊の油が私たち一人ひとりの上に静かに、しかし確かに注がれているのです。
2.
ところで先週、敬和学園高校の3年生の生徒さんたちが教会に来て、会堂のワックスがけや庭の草むしりなどをしてくださいました。
今年で三回目になりますが、毎年お昼には生徒さんたちにハレルヤコーラスを歌っていただいております。
事前に打ち合わせに来てくださった担当の先生に、「うちでは生徒さんにハレルヤを歌っていただくことになっているんです」と伝えました。
すると、ちょっと面食らいながらも、わかりました、生徒に伝えておきます、とおっしゃってくださいました。
ひどい牧師だなと思う人もいるかもしれません。しかし私たち、卒業生なのであえて私たちと言いますが、
私たち敬和の学生は、三年間で校歌よりもハレルヤコーラスのほうをよく歌いますので、即興でもすぐに歌えるのです。
ところが今年は、ちょっと例年と違って、困ったことが起こりました。
昨年も一昨年も、男女が半々で来てくださったのですが、今年は男性ばかりが10名。ソプラノ、アルトのパートが誰もいない。
生徒さんたちもさすがに緊張して、すいません、裏庭で練習させてください、と。でもそれもまたすごかったですね。
何がすごいかというと、会堂で待っている私たちの耳にも、裏庭からすごく響く声で「ハレルヤ」という叫び声が聞こえたからです。
さぞご近所の方々は驚いたことでしょう。私はその「ハレルヤ」という叫びを聞きながら、二千年前のエルサレムでのこの出来事を思い出しました。
ヘンデルの「ハレルヤコーラス」は、ただの賛美ではありません。イエスがサタンに勝利し、永遠の栄光の御座につかれたという宣言です。
そして二千年前のペンテコステの日、聖霊はあえて大音響と共に弟子たちの上へ下りました。
聖霊がお下りになるのに、本来大きな音や地震のようなものは必要ありません。それは信者の心の中に起こるものだからです。
しかしあえてこのとき激しい風、音、地震が伴ったのは、この世の人々に恵みの到来を宣言するためです。
人々は何事かと集まってきます。そのとき、弟子たちはそれぞれが外国の言葉でみことばを語り始めました。
そして人々は驚いたのです。それは、彼らが自分たちのふるさとの言葉で語っていたからです。
石川啄木の有名な短歌を思い出します。「ふるさとのなまりなつかし/停車場の人ごみの中に/そを聞きにゆく」。
エルサレムに来ていた外国生まれのユダヤ人たちは、使徒たちがなつかしい自分の国の言葉で語るのを聞き、そこに耳を傾けました。
そして、そこで彼らの心を突き刺す福音の言葉が語られたのです。
3.
祭りのためにさまざまな国からやって来た人々は、そこでそれぞれの国のことばで神のみわざが語られていることに驚きました。
しかし一番驚いたのはそれらを語っているのが、こともあろうか、「ガリラヤの人々」であったということでした。
「ガリラヤの人々」とは、二千年前のイスラエルでは、今日で言う差別用語のような意味合いで使われていた言葉です。
「あのどうしようもない田舎、ガリラヤの人間」といったところでしょうか。
しかし聖霊は、このガリラヤの人々を、世界を救いに導くために用いられたのです。
そして、私たちがイエスを信じるならば、どんな小さな者であっても、神様によって用いられるのです。
先週来てくださった敬和の生徒たちに、私はこう語りました。
「敬和学園高校が掲げている、自分探しという教育のテーマは、3年間で本当の自分を見つけたという満足のためにあるのではない。
私の昨日までの人生がどうであろうとも、今日私は変わることができるという、神の約束なのだ」と。
神は、ガリラヤの人々と揶揄されるような弟子たちを、世界の人々が救われるために用いられました。
そして今日、ここに集まった私たちも変えてくださり、世界の救いのために用いてくださるお方です。
今日、聖霊をあたかも弱った信仰に元気を取り戻す点滴のようにだけ考えている人もいます。
あるいは自分の信仰が弱いのは聖霊が与えられていないからだと考え、自分で自分の救いをちっぽけなものにしてしまう人もいます。
悲しいことです。しかしクリスチャンにおぼえてほしいのは、私たちはイエスを信じて救われたときに確かに聖霊が与えられたということです。
そして私たちが救われたのは、どんな小さな者であってもこの世界を救う働きへと加わっていくためです。
だから、聖霊の力が、知恵が、喜びが、情熱が、私たちの唇から手足に至るまで、私のすべてを覆ってください、と。
私を神の働きのために用いてください。私をあなたの働きのために遣わしてくださいと願いましょう。
この世で最も尊い働きが私たちにはゆだねられています。
このペンテコステを記念する礼拝を通して、自分自身を神様に改めておささげする決意の祈りをささげましょう。