私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ1:9-11)
「神社に油」事件が世間をにぎわせている。マスコミ、インターネットに氾濫している情報を整理すると、以下のようになるだろう。
・容疑者はアメリカ在住の日本人国籍の52歳医師。
・数年前よりキリスト教系の宗教団体を立ち上げ、国内・国外で活動してきた。信者は約100人。
・神社仏閣を偶像と悪霊の拠点とみなし、「きよめ」のために油(アロマオイル?)を撒いた。
・警察は、容疑者が日本に帰国次第、逮捕する方向を固めている。
マスコミでは実名を伏せているものの、インターネットで「神社に油」と検索すると、団体名、容疑者の氏名、そして写真も容易にヒットする。
これらの情報から判断するならば、数ヶ月前に私たちの教会を訪問してきた団体で間違いない。
ある日曜の夕方、一人の中年男性(容疑者本人ではない)および二人の若い女性が牧師との面談を求めて、教会を訪れた。
男性は名刺とチラシを取り出し、「今度新潟XXXで聖会を行うので、ぜひ先生に信徒を誘って来てほしい」と言った。
その時点で、この団体のカルト性を見抜いていたわけではない。ただ、この男性の「証し」に違和感を覚えたのは確かである。
彼は大手企業で管理職として勤め、もともと伝統的プロテスタント教会に所属していたという。
だが「K先生という本当の神の人に出会ってから、聖霊様の本当の満たしを受けて、本当の信仰がわかったのです」。
「本当の」を何度も繰り返す人は、営業マンであれ、宗教関係者であれ、相手よりも自分を納得させるためにこの言葉を乱用する。
新潟の各教会を訪問すると言うわりには、豊栄の近隣にどんな教会があるのか把握していなかったことも不思議だった。
結局私はその集会を積極的にアピールするつもりにはなれなかった。 新潟青陵大学の碓井真史教授が、次のような文章を書いている。
今回の事件は、しっかり捜査し、公正な裁判が行われることを望みます。しかし、彼個人を責めるだけで終わらせてはいけないとも思います。またこんな出来事があったからと言って、宗教や宗教心自体を否定するのは、間違っていると思います。マザーテレサも、キング牧師も、偉大で尊敬できる人です。
油をまいた男性のメッセージを聞いた人はたくさんいます。「清める」という発想に賛同する人もいるでしょう。しかし、普通のキリスト教徒なら、神社仏閣の建物に油をまいた彼の行為を肯定する人など、誰もいないはずです。
ただ、気をつけなくてはならないと思います。有能で熱心な人の心の中に、わずかなすきやゆがみが生まれ、それが宗教や政治思想と結びついたとき、過激な行動が生まれやすくなります。熱心な宗教心や政治思想が悪いわけではありません。しかし、自分の言動が第三者から見たときにどう思われるのかという客観性と「愛」を失ったとき、カルト化の道は始まるのです。(神社油まき清め男の正体:カルト宗教でもなく異常者でもないからこその社会的問題)
私たち豊栄キリスト教会(日本同盟基督教団)は、日本のプロテスタントの中で「福音派」と呼ばれる流れの中にある。
一言で言えば、聖書を信仰と生活の唯一絶対の規範と信じるグループと言うことができる。
だが、それは聖書の記述を、現代という歴史的文脈を無視してそのまま単純に実行することではない。
たとえば、旧約聖書ではヤハウェ(「主」)以外の神はすべて偶像であると教えている。
イスラエルの数千年に及ぶ歴史は、彼らの生活に入り込んでいた偶像バアルとの戦いに終始していた。
現代に生きる私たちも、「主イエス・キリスト以外に救いはない」と信じ、告白することにおいて違いはない。
だが、だからといって、キリスト教以外の宗教や、その歴史的遺産を破壊するということはしない。
もしこれを実行したらどうなるか。それがまさに今回の事件の本質といって良い。
おそらく容疑者は、悪いことをしたとは思ってはいない。
神のみこころを実践したまでで、むしろ真理に耳を傾けない世の人々が彼を「迫害」しているとさえ抗弁するかもしれない。
彼らは聖書を現代の文脈の中で読もうとしない。
聖書の書いてあるとおりにすれば祝福があるという耳触りのよい言葉を用いて、じつは自分たちが法を犯していることにも気づかない。
以前、あるお年寄りのことを聞いたことがある。
その方は、仏壇や先祖伝来の墓の継承のことが障害となり、教会に来てからも決心するまで時間がかかった。
だがとうとう決心したとき、教団の所有するキャンプ場で仏壇を焼いた(壊した)という。
このような行動に対して快哉を叫ぶ体質が、じつはキリスト教、とくに福音派の中にあることを私は認める。
認めた上で、それが人々をつまずかせていることを悔い改めなければならないと思う。
これらは碓井教授文章の表題のとおり、カルトでも異常者でもない。「普通」のクリスチャンの中から聞こえることである。
パウロは「真の知識とあらゆる識別力」、そしてすべてに増して「愛」がピリピ教会に与えられるようにと祈っている。
熱心さは、その人の信仰の正しさのバロメータたり得ない。
もしある人の熱心が他の信仰を持つ人々の心を傷つけるならば、そのような独善的な熱心を神は決して喜ばない。
その歪んだ正義は、まさしくイエスが「改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分よりも倍も悪いゲヘナの子にするのです」(マタイ23:15)と批判した、パリサイ人の熱心さである。
自分の信じているものが、世の人々を励まし、慰め、真理へと導くものとたり得ているかどうか。
このような自戒さえせず、自分の行動がいつも正しいと決めこんでいる信仰は危険である。
そのような「信仰」は信仰の名に値しない。なぜならば、考えることを放棄し、自らを疑うことをやめてしまっているからだ。
私たちは、いともたやすく自分を義としやすい。だからこそ、神を仰ぐ。
自分にとってどんなに正しく思われる行動も、そこに天来の愛がなければ、容易に反社会的行動に結びつく。
自分を納得させるわけではないが、私も「本当の」という言葉を最後に用いることをお許し願いたい。
「霊の戦い」とは、神社仏閣の中に悪霊が潜んでいて、世の人々を束縛しているという意味ではない。
もしそうであれば、パウロはアテネ訪問の際に、ひたすら街頭に乱立する偶像を破壊して回ったことだろう。
本当の霊の戦いとは、私たちの心の中での戦いである。
自己義認に陥りやすい信仰者が、自らの高ぶりを砕かれて、内住の御霊に自分を従わせて歩んでいくことなのだ。