先日、私の母校であるミッションスクール、敬和学園大学の新学長就任式に出席してきました。
礼拝の時間を用いて行われた小規模なものでしたが、この手作り感が地方の小大学の良さでもあります。
新しく学長になられたY先生は、25年前、私が主宰していた聖書研究会に毎日お付き合いくださっていた方でした。
今Y学長は65歳ということは、あの頃40歳。・・・・今の私よりも若いですね。時の流れは早いものです。
今日、時間が与えられているなかで、精一杯生きましょう。牧師が日曜夕方に書斎に引きこもって言うセリフではありませんが。
週報はこちらです。
聖書箇所 ルカ5:12-16
12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。
14 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
15 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。
16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
序.
つい最近のことですが、NHKの朝の番組に、女優・声優の市原悦子さんがゲストとして出演されました。
市原さんといえば、まんが日本昔話のナレーターを長く務められた方。
そこでインタビュアーが「今までやった昔話の中で、一番好きな話は」と聞くと、「やまんば」という答え。
その理由を、彼女はこう続けたそうです。
「やまんばは、世の中から外れた人。たとえば「かたわ」になった人、人減らしで捨てられた人、外国から来た「毛唐」で化け物と言われた人。
こういう人は大変な憎しみをもつ一方で、心が通じるとどこまでもこよなく手をつなげる。その極端が好き、と。
ところがこのコメントは台本になかったらしく、番組の最後にアナウンサーが謝罪をする騒ぎとなりました。
番組の中で、障がいをお持ちの方や外国人の方に対する不適切な表現があったことをお詫びいたします、と。
かたわが障がい者を意味するのであれば、私も当てはまるのかもしれませんが、何か複雑な思いがいたします。
振り返ってみると、障がい者の「がい」をひらがなで書くようになったのはいつ頃からでしょうか。
害虫の害、害悪の害、害の字をひらがなに直して差別がなくなるかと言えば、決してそんなことはありません。
「かたわ」という言葉をなくしてしまうことで、むしろもっと大切なものが失われているように思えます。
1.
今日の聖書箇所に出てくる「ツァラアト」という言葉は、第三版聖書で初めて出てきた言葉です。
この以前の訳では、ツァラアトではなく「らい病」と訳していました。
一般社会でも、今は「らい病」という言葉は使わず、「ハンセン病」と呼ぶようになっています。
ハンセンは、140年前にらい病の原因が、らい菌という細菌であることを発見した医師の名前です。
ハンセン病、つまりらい病は、大昔の時代から記録に残っている病気です。
生まれてまだ抵抗力がついていない時にらい菌が取り込まれると発病すると言われますが、かつては遺伝病のように考えられてもいました。
だんだんと皮膚がただれ、神経が麻痺し痛みさえも感じなくなり、そして手足が変形していきます。
その悲惨な病状は、人々の明らかな差別と偏見を生みました。
この病気にかかるのはその人の罪のため、前世の報いのため、本気でそう信じられ、彼らは社会から隔離され、記憶から抹殺されました。
イスラエルでさえ、そうだったのです。旧約聖書のレビ記を見ると、
ツァラアトの人は民から引き離され、私は汚れていると叫びながら、ひとり宿営の外で暮らさなければならない、とあります。(レビ13:45)
今日の聖書箇所から、たまたまイエスが町におられたとき、そこにツァラアトの人もいて、イエスに近づいてきた、という印象を受けるでしょう。
しかしツァラアトの人は町の外に追いやられ、人々の前に出ることも許されませんでした。
つまり今日の聖書の背後には、それでも必死に神を求めて町に入り、イエスに近づいた、この人の信仰を見落としてはなりません。
人々に自分だとわからないように、全身を覆って、そして見つかったら罰を受けることを覚悟して、イエスに近づいたに違いありません。
そこにあったのは、ただただ信仰だけであり、それはこの言葉に集約されています。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」。
2.
「お心一つで!」この言葉の中には、数え切れないほどの日々、ひたすら苦しみ続けた、彼の人生が詰まっています。
突然自分の身にふりかかってきたツァラアトという病。
家族からは引き離され、人々からは差別され、野の獣のように町の外で生きなければならない日々。
どんなに自分を変えようとしても、どんなに自分の生活を変えようとしても、何も変わらない、何も変えることができない。
そこにはまさに「やまんば」のようなむせかえるような憎しみと敵意さえあったかもしれません。
しかし彼は、イエスを神と認め、そしてこう言ったのです。「お心一つで」と。
人間が百万回繰り返しても何一つ変わらない現実でも、神がそのお心をわずかに向けてくださるならば、確実に変わる。
これを信仰と呼ばずして何と呼ぶことができるのか。信仰とは真剣勝負です。
イエス様もまた、彼に真剣に向き合い、手を伸ばしてこう答えられました。「わたしの心だ。きよくなれ」。
真剣に神を求める者に、神もまた真剣に向き合ってくださるのです。
でも私の人生は救われた今でも変わっていない、と言う人がいるかもしれません。変わっています。
しかし救いなんてはじめからこんなものだろうと決めてかかっているならば、自分が変わっていることに気づかないのです。
実際のところ、私たちの人生は、求めなくても、気づかなくても、何とかやっていけることがほとんどです。
進学、結婚、就職、あるいはその他のあらゆる局面で、第一希望ははじめから無理、第二、第三、第五希望くらいで手を打って、
それでも何とかやっていける、とくに真剣に生きろなんて言葉は、この世界では恥ずかしいか、重いと煙たがられるのが関の山です。
しかし罪の赦しと、そして永遠のいのちに関しては、確かに求めなければなりません。気づかなければなりません。あきらめてはなりません。
人が救われるということは、棚からぼたもちを見つけるがごとき、安易な偶然ではないのです。
人が、自分に待ち受けている罪のさばきを悲しみ、何とか永遠の滅びから救い出されたいと天に向かって腕を振り上げて、もがく。
その叫びを神は必ず聞いておられ、私たちを救い上げてくださるのです。
救いはただ神の恵みであると私たちは知っています。
しかしそれは、払うべき代価をすべてイエス・キリストが十字架の上で支払ってくださったということです。
自分に絶望することがなければ、神に希望をもつことなどありません。
死に物狂いで、無様にもがき苦しむこともなく、スマートに救われる人などいないのです。
3.
疎外された人生から解放されるために、このツァラアトの人は真剣にイエスに求めました。
その真剣さに対し、イエスご自身もまた、真剣さをもって答えてくださいました。
14節のイエスの言葉、「だれにも話さないで、祭司に自分を見せ、供え物をささげなさい」は、不思議に思えるかもしれません。
なぜ、人々にイエスが私を変えてくれたと伝えてはならないのか。しかし彼の真剣さを知るイエスだからこそ、彼にこう命じたのです。
多くの人々は、神の国よりも、病のいやしや食べ物を安易に手に入れるためにイエスに近づいている。しかしあなたは真剣に私に近づいてきた。だから、あなたは、聖書が命じているとおりに、ただ行いなさい、と。
あなたは、何を求めて教会に来ているのでしょうか。
人生の満足ですか。人々と共に過ごす時間ですか。それとも、神に向かって、お心一つで、私をきよくしていただけます、という叫びですか。
もちろん、そのどれであっても教会に来るのにふさわしくない、ということはありません。教会はすべての人に対して開かれています。
しかし私たちはやがては決断しなければなりません。
十字架の前に立ち、イエスを選ぶか、この世を選ぶか。永遠のいのちを選ぶか、永遠の滅びを選ぶか。
もしかしたら、今日がそれを選ぶ日であるかもしれません。
イエスが十字架の上で、私たちのために肉裂かれ、血を流し、ご自分のいのちを捨ててくださったことを今一度心に刻みつけましょう。
ひとり一人が、イエスの前に「お心一つで」と真剣に叫びましょう。
イエスもまた、あなたの心に向き合って、言葉を与えたいと願っておられます。
ひとり一人が、しばらくの間、静かに神の語りかけを聞きましょう。