今日の午後は、近隣の村上福音キリスト教会・新発田キリスト教会との、年一回の合同集会「村新豊交流会」でした。
初めて開催したのが2003年ですので、今年でもう13回目!になるでしょうか。写真は後日アップします。
週報はこちらです。
聖書箇所 ルカ5:17-26
17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
18 するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。
20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
26 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言った。
1.
イエス様は、どんな病でもいやしてくださる。そんな噂が村から村へ、町から町へと広がっていました。
パリサイ人や律法の教師たちは、怪しげなイエスという男の尻尾をつかんでやろうと考えていたのでしょう。
彼らも含めて、今日もイエス様の周りには足の踏み場もないほどの人だかりができていました。
野外ならまだしも、それが家の中ですから、集まった人々も大変です。
そんな中、突然天井からばりばりという物音が聞こえました。でかいネズミか、それとも晴天の落雷か。みなが驚いて天井を見上げます。
目が痛い。ほこりや、漆喰のかけらや、木の切れ端がぱらぱらと落ちてくるではありませんか。
当時のユダヤの家屋は屋根がはがしやすい構造になっていました。しかしそれでも、屋根を外すなんて非常識です。
人々が声を上げるなか、四隅を縄でつり下げられて、寝床がゆっくりと真ん中におろされてきました。
そこに寝かされていたのは、寝たきりの中風の人でした。四隅の縄を天井でつかんでいたのは、彼の友人たちです。
この招かれざる客人に、イエス様は眉をしかめられたのでしょうか。いいえ、心配はいりません。20節にこう書いてあります。
「イエスは彼らの信仰を見て」と。イエス様は、彼らのしたことを、非常識ではなく信仰として見てくださいました。
必死で神に近づこうとするとき、それが人々の目には非常識と見えることもあります。しかしイエス様は、それを信仰と見てくださるお方です。
ここには、信仰の一つの大事な側面があります。
人を見るのではなく、ただ神を見つめること。たとえ非常識と思われても、決して神に近づくことをやめないこと。それが信仰です。
2.
数週間前より、国内のいくつかの神社仏閣に油をかけるという行為が騒がれています。
すでに容疑者も確定し、実名は挙げられていないものの、私も間接的に名前を聞いたことのある人です。
彼は日本を悪霊の支配から解放するために、神社仏閣に油をかけたと、今までの講演の中で主張していたそうです。
その行動は、この瓦を取り外した人々と同じように信仰によるものと言うことはできるでしょうか。決して言うことができません。
確かに信仰は時として、非常識にさえ見えることがあります。しかしそこにどうしても欠けてはならないもの、それは愛です。
この人々は、中風の友を何としてでもイエスに近づけさせるために、汚名をかぶることさえも厭いませんでした。それは、友に対する愛です。
しかしくだんの人は、何のために油をまくのですか。それは愛でしょうか。だれへの愛ですか。
立派なことをしていると信じ込んでいる自分への愛でしかありません。聖書はそれを罪と呼ぶのです。
神社仏閣を訪れる人々は、私たちの信じているキリスト教とは違うものを信じているかもしれません。
しかし彼らは敵ではありません。私たちが愛をもってキリストを証ししていく人々です。
愛を見失うとき、人は自分のしていることが何のためなのか、ということも見失ってしまうのです。
信仰は、非常識と呼ばれることさえも恐れません。
しかし自分に信仰があると思う人は、もうひとつの行動原理である、愛を見失っていないかと自分を吟味することを忘れてはなりません。
キリスト教徒のみならず、多くの人々から今も尊敬されている、マザー・テレサの言葉の一つを紹介します。
大切なのは、どれほど多くを施したかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。イエス・キリストは、結果ではなく動機を見られます。外側に現れるものではなく、心の内側に隠れたものを見ておられます。
大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。
彼ら四人の行動が、たとえ人の家の屋根をはがすというものであったとしても、そこには確かにひとりの動けない友人への愛がありました。
この行動の前に、彼らが躊躇しなかったわけがありません。しかし彼らは決断し、行動に移しました。
それは彼らの友を何とかしてイエス様に引き合わせるためでした。主はそのすべてを見ておられたのです。
主は中風の人にこう語りかけました。「友よ。あなたの罪は赦されました」。
イエス様も、この四人の友人と同じように、彼の友となることを喜びとなさいました。
そしてその呼びかけは、今も私たちに対して向けられています。
3.
しかしその場にいたパリサイ人や律法学者たちは、イエス様のことばにこうつぶやきました。
「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう」。
注意してほしいのですが、人一倍口やかましい彼らが批判したのは、屋根をはがした人々ではなく、イエス・キリストのほうでした。
彼らには見えなかったのです。一人の友のために、屋根をはがした人々の愛。
その彼らの行動を、信仰と呼び、自らもその友の一人となってくださった、イエスの愛。
彼らは、この中風の人が今までの人生の中で、どれだけ苦しんできたのかさえも考えようとしませんでした。
そんな彼らに、イエス様はこう問いかけられました。
23節、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」。さあ、どちらの言葉がたやすいでしょうか。
「罪が赦された」というほうがたやすいのです。なぜなら、罪が赦されたという言葉は、証明する方法がありません。
しかし「起きて歩け」は、実際にそれが起こらなければ、嘘ということになってしまいます。
イエス様は、揚げ足を取ろうとするパリサイ人たちのたくらみをはじめから知っていました。
「起きて歩け」とはじめから言えば、彼らはぐうの根も出なかったでしょう。
しかし主は、どうしても先に「あなたの罪は赦された」と語らなければなりませんでした。
罪が赦されなければ、たとえ中風の人が起きて歩けるようになったとしても、その人生は永遠の滅びに向かってしまうもののままだからです。
もう一度赤ん坊に戻って人生ははじめからやり直すことができたなら。そう考える人はたくさんいるでしょう。
しかし、たとえ人生をやり直すことができたとしても、罪が赦されなければ何の意味もありません。
そして罪を赦すことは、イエス・キリスト以外にはだれによってもできません。
だから、人生のすべての問題を後回しにしても、まず人が真っ先に求めなければならないこと、それは「罪の赦し」なのです。
「立って歩けるようになること」がこの中風の人、そしてその友人たちがイエスのもとに来た目的でした。
しかしキリストは、彼にもっと大きな恵みを与えました。それが罪の赦しです。
罪が赦されたと確信できるとき、私たちの人生は今ここに自分がいることを心から感謝できるものへと変わるのです。
たとえ貧しくても感謝し、病に覆われても感謝し、苦しみの連続であっても感謝することができます。
あなたもぜひその恵みをうけとるために、イエス様の言葉を心に刻みつけてください。「友よ、あなたの罪は赦された」と。