先月は私の母の葬儀があり、今月は教会員のご家族の方の葬儀がありました。
クリスチャンにとって仏式の葬儀に出席するとき、焼香の問題なども出て来るのですが、
やはり何よりも大切なのは「悲しむ者とともに悲しみ、喜ぶ者とともに喜ぶ」ということだと思わされます。
ご遺族の方々の深い悲しみの前にこちらも打ちのめされるときがあります。
いのちの源であるキリストをお伝えしたいと心から願います。週報はこちらです。
聖書箇所 ルカ5:27-32
27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。
28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
序.
私は、子どもの頃、珍しい名字のせいでよくいじめられました。
ただ珍しい名前だったらつけた親を恨むこともできますが、名字となると、いったいだれを恨むべきなのかわからない。
しかしある日、とうとう我慢できずに父親に泣きつきました。「お父さん、どうしてうちはこんな変な名字なの!?」
すると父親が烈火のごとく怒り出しました。
「変な名字とは何事だ。近というのはな、近藤家に仕えていたうちのご先祖が、戦で手柄を立てたご褒美なんだ。お前、この意味わかるか」。
わからない。しかもだったらチカじゃなくてコンだろ、と思いましたが、父親のあまりの剣幕に、その場を逃げ出しました。
それ以降30年間、私はチカという名字を受け入れてきたのですが、先日とんでもないことが起こりました。
母の葬儀の際、案内板に家紋を載せますと葬儀屋さんから言われて、父が家紋が入った額を持って来ながら、一言、こう言ったのです。
「なんでうちって、こんな珍しい名字なんだろうな」。
いや、お父さん、昔説明してくれたでしょ。父親にかくかくしかじか、30年前に本人から聞いたことをそのまま説明しました。
すると父が言いました。「え、おれ、そんなこと言ったのか。全然おぼえてないな」。
あまりにもきれいさっぱり忘れているので一瞬怖くなりました。
しかしこうも思ったのです。30年前の父親の姿というのは、子どもから見てもプライドが高かったなーというのがありました。
いわく、「俺は子どもの頃から泣いたことがない」とか、「背は低かったけど、もてた」みたいなことをよく言っていました。
家のルーツというのもその一つだったのかもしれません。
しかしその父も、もう72歳、プライドをかき立てなければ生きていけなかったあの頃から、きれいさっぱり解き放たれたのかもしれない。
そう思うと、よかったな、お父さんと言いたくなりました。父が聞いたら、親に対して生意気だと言われるかもしれませんが。
1.
さて、今日の聖書箇所の冒頭は、イエス様が「レビ」という取税人を弟子として招かれるところです。
じつはこのレビは、私たちがよく知っている、「マタイの福音書」を書いたマタイその人です。
ところがこのルカ福音書では、「マタイ」ではなく「レビ」と記します。
その背後には、彼の心の中にあった「レビ」という名前に対する強い誇りのようなものがあったのではないでしょうか。
レビという名前にあるレビ部族は、イスラエル12部族の中で、唯一礼拝を司るために神殿を出入りすることが許されていた特別な部族でした。
しかしレビは、そのような誇り高い部族の名前を持ちながら、しかし実際にやっていることは、イスラエルを搾取しているローマの片棒担ぎ。
そのギャップの中に苦しんでいたのではないでしょうか。
もしそれがただの想像であったとしても、はっきりした事実があります。
彼の心の中にどんな葛藤があろうとも、イエスは彼を弟子として招くことを、この世が造られる前から定めておられたということです。
オーバーに聞こえるかもしれませんが、エペソ人への手紙の一節に、確かにこう書かれています。
「神は私たちを世界の基が造られる前からキリストにあって選んでくださった」と。
私たちの過去がいかに血に染まっていようが、後悔の念で詰まっていようが、それはキリストの救いの妨げにはなりません。
涙も、傷も、あらゆるものが、私たちにとって糧となりはしても、それがキリストの救いを私たちから取り上げるものにはなりません。
イエス様にとって大事だったのは、レビがそれまでどんな人生を歩んでいたかではない。イエスの招きに、今従うかどうか。
そして彼は従った。私たちがどんな自己嫌悪に陥っていたとしても、自分のようなものは救われるはずがない、と思いこんではなりません。
イエス・キリストの救いの御手は、確かに罪人に向かって差し伸ばされているのです。
イエス様はパリサイ人たちにこう言います。医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人だと。
レビの葛藤が何であれ、彼は自分がたましいの病人であり、救いを必要としている人間だということを知り、そして立ち上がりました。
そしてすべてを捨てて、イエスに従いました。
ローマの取税人は、もしこの職から一度離れたならば、決して再びこの職につくことはできないという決まりがありました。
それはある意味、私たちがキリストを信じることに通じるものです。
私たちがキリストを信じるということ、キリストに従うということは手にすでに何かをつかみながらあれもこれも、と求めることではありません。
手につかんだものをすべて離し、あるいは手につかんだものを向こう岸に放り投げて、川を渡っていくような、そういう決断が求められています。
レビは、イエスに出会ったことで新しい弟子としての道を歩み始めました。
中風の人を立ち上がらせたイエス・キリストのまなざしとみことばは、罪にがんじがらめにされていた、魂の病人レビも立ち上がらせたのです。
2.
どうかイエスのこの言葉を心に刻みつけてください。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」。
イエス・キリストは、取税人たちをただの友人としてではなく、確かに病人であるという意識を持っておられました。
これは心の底では差別していたという意味ではありません。
彼らをいやし、永遠のいのちを与えるために私は来たのだ、というはっきりした目的を持っておられたということです。
キリストのみことばは剣のように鋭く、力があります。それは人の心の隠れた罪をもえぐり出します。
そしてたましいの病んだ者を、必ず救うことができます。
単に甘いだけの、口先の慰めや励ましではなく、患部を的確に押さえ取り除くメスのようなものがキリストのみことばです。
だから私たちは、この聖書のことばを、ただ受け入れるときに、確かに救われることができるのです。
私が15歳のときに、骨肉腫の除去手術を経験しました。
その難しい手術を担当してくださったのは、当時50歳の熟練した外科医であったT教授と、その助手でまだ30代前半であったH医師でした。
T教授は定年のその時まで私を見てくださいました。
その後はH医師がそれを引き継ぎ、半年ごとに私に同じ病気が再発しないかどうか見てくださっています。
あの時15歳だった私は今年で44歳、そして30代前半だったH医師はもう数年後には定年かもしれません。
先日も半年ごとの定期検診だったので、大学病院へ行ってきました。
この先生の前では、私は何十年経っても15歳の少年に戻ります。そしてH先生も、定年までは私が近君を見続けるよと言ってくださいます。
病の人間と関わるというのはそこまで時間を費やすものであるのでしょう。
人間である医師でさえそうであれば、救い主イエス・キリストはなおさらのこと、私たちが御国に入るその日まで決して見捨てることはありません。
まず私たちは自分が病人であるということを認めましょう。正しい人などでもなく、歪んだ人間であることも認めましょう。
しかし主イエスは、そのような人を私は招くために来たのだ、と言ってくださっているのです。
そしてこの方のもとに来るならば、そこには確かな救いの喜びがあります。
ぜひひとり一人が、改めてイエス・キリストの招きを受け取っていきましょう。