今日は礼拝後、婦人たちが「かご」作りに励んでいました。毎年恒例、10月に開催される教会バザーへ出品する予定です。
みなさん、表情が真剣そのもの。作り方も教えていますので、興味のある地元の方は教会までお問い合わせください。
週報はこちらです。

聖書箇所 ルカ5:33-39
33 彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
34 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。
35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」
1.
「クリスチャンの信仰を一言でいうと」と問われたら、どう答えるでしょうか。
色々な言葉が思い浮かびますが、「喜び」と答えます。
クリスチャンにとって、この答えは決してそんなにビックリするようなことではないでしょう。しかし世の人々は驚くかもしれません。
なぜなら、「信仰」という言葉を聞いて人々が連想するのは、厳しい修行生活のようなものだからです。
ヨハネの弟子や、パリサイ人の弟子たちが追い求めていた信仰生活は、つらい道でした。
自分の欲望を捨て、体を打ちたたいて、感情を押し殺し、断食や祈りを重ねていく生活です。
おそらくみなさんは、イエス様が話された「放蕩息子のたとえ」を今まで聞いたことや、実際に読んだことがあるかと思います。
そのたとえ話の後半で、帰って来た放蕩息子の兄が登場します。
いなくなった弟息子が帰ってきたとき、父は大喜びで祝宴を開くのですが、それを聞いたこの兄だけは、腹を立てて家に入ろうとしませんでした。
じつはこの兄の姿こそ、パリサイ人たちの姿です。なだめる父に対して、兄息子はこう言います。
「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません」。
兄、すなわちパリサイ人たちは、確かにこの言葉のとおり、長年の間、神に仕えていました。
旧約聖書の教えを忠実に守るだけでなく、新しい生活の決まりもたくさん作りました。
旧約聖書では、年一度しか命じられていない断食を、パリサイ人たちは週二回に増やしました。
しかしその熱心さと引き換えに、彼らは神の子どもとして最も大切なものを失ってしまったのです。
それが「喜び」です。神を喜び、罪人が救われることを喜び、神の与えてくださったすべてを喜んで受け取る。
しかし彼らは逆の道を歩みました。
さも自分は頑張っていますという顔をして、自分は神に一生懸命従っているんだぞ、と、神よりも周りの人々の目を気にする。
そこには、決して喜びはありません。喜びがなければ心は渇きます。
だから彼らはその代わりに、人々のほめことばでその渇きを満たそうとしたのです。
2.
彼らはイエスに言います。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。
また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。
断食も祈りも、神と自分との関係から生まれるもので、人に見せたり、ましてや人に強制するものでは決してありません。
信仰をゆがめて理解しているパリサイ人に対して、イエス様はたとえによって、信仰の本質をはっきりと語られました。
34節、「花婿がいっしょにいるのに、花婿に付き添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか」。
「花婿」とは言うまでもなく、イエス様のことです。では花婿に付き添う友だちとはだれでしょうか。もちろんイエスの弟子たちのことです。
彼らは、イエス様と共にいることができるのを喜んでいました。
イエス様も、やがては十字架の苦しみが待っていることをおぼえながらも、今は弟子たちと共に時間を過ごすことができるのを喜んでいました。
そこには、ただ喜びがあります。
では、私たちはどうでしょうか。
イエス様が十字架にかかり、天へと昇られた今、私たちはイエス様が言われたように断食をすべき時にいるのでしょうか。
決してそうではありません。イエス様は、今も私たちと共にいてくださるからです。イエス様は時間と空間を越えた、霊であるお方です。
今、天の御座で私たちのためにとりなしをしてくださっているイエス様は、同時に私たちの心の中にも住んでいてくださるお方です。
今は、決して悲しみの断食をすべき時ではありません。
主が語られた、「断食すべき時」は、十字架にかかられてよみに下られた三日間だけです。
今、確かに主はよみがえられて、私たちと共におられます。
だからこそ、私たちは喜びましょう。クリスチャンにとって、毎日がイエスとの結婚式です。
弟子たちを花婿の友人とたとえたイエス様は、私たち教会に対しては、花嫁とさえ呼んでくださいます。
結婚式は、私たちが天国に行くときまで待つ必要はありません。
今、地上で歩んでいるこのとき、イエス様は花婿として、私たちはその花嫁として、ひたすら喜びの中に生きることができるのです。
3.
最後に、イエス様の語られたぶどう酒と革袋のたとえについて考えてみましょう。
今日、多くの人々が、様々な問題を抱えて教会に相談に来られます。
ある人は家族や職場での人間関係に疲れて。ある人は経済的に困窮して。またある人は、病気のいやしを求めて。
しかし誤解を恐れずに言うならば、イエス様が与える解決は、そのような問題からの具体的な脱出ではありません。
イエス様は、むしろご自分の十字架を通して、人と神との間の越えざる壁を崩してくださいました。
十字架に出会うまでは、人は罪がわからず、神も周りも悲しませている自分が見えません。
しかし十字架の贖いを信じるとき、神と人との関係が回復されます。一個一個の問題の場当たり的な解決で終わりません。
そして、私たちの生活にどんな問題が起きても、それらは決して私を神様の恵みから引き離すものにはならないのだと気づかされるのです。
一つの例を紹介します。ある教会に、ひとりのお母さんが来られました。
子どもが引きこもり、親にも反抗するようになり、夫婦の関係も悪くなったという悩みを抱えていました。
牧師は一時間以上話を聞いてくれましたが、具体的な提言は「来週から礼拝に出席することを勧めます」だけでした。
わらをもすがる思いで来たのに、と失望しかけましたが、それでもその言葉に従って、通い続けました。
しかしあるときの礼拝説教を通して、彼女は自分の理想を子どもに押しつけ、夫に責任を転嫁していたということを示されました。
さらに聖書を学ぶ中で、彼女はイエス・キリストが死なれたのは、この自分の罪のためであったことに気づかされました。
そのとき、子どものためと言いながら、自分の忠実なコピーを作って、自分をこの世に残し続けようとしていたことにも気づかされたのです。
しかし永遠のいのちをイエス様が与えてくださった今、そのような必要はまったくないのだということがわかった。
そして家族との関係も少しずつ変わっていったということです。
新しいぶどう酒を古い革袋に入れたら、両方ともだめになるとは、まさにこういうことです。
新しいぶどう酒はまだ発酵を続けていますから、古びた革袋の中で膨張し、破裂してしまいます。
イエス・キリストが与えてくださる永遠のいのちは、新しいぶどう酒です。
この世のしがらみ、この世の価値観、この世の生き方、あなたはそれをいつまでも保とうとし、捨てることをしないままではいませんか。
そのような生き方は、永遠のいのち、この新しいぶどう酒を受け止めることができません。
しかし私たちは、イエス様の最後の言葉を重く受け止めなければなりません。
「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」
いつの時代にも、そして「だれでも」とあります。
あらゆる人々は、古いぶどう酒をひとたび口にするや、そのかぐわしさに酔いしれて、新しいものを手に取ろうとしません。
「古いものは良い」と言って、現状維持にとどまり、自らの知らない、新しい世界へと飛び出そうとしないのです。
でもイエス様は求めておられるのです。古いぶどう酒ではなく、新しいぶどう酒を。古い革袋ではなく、新しい革袋を。
わが愛する友よ。わが愛しき花嫁よ。古きぶどう酒から手を離せ。捨てよ。むしろ新しき御国の祝宴に酔いたまえ、と。
今、私たちは毎日このイエスと共に、新しき時代の、御国の祝宴にあずかっています。それが新しいぶどう酒です。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に。新しい生き方に。新しい人に。永遠のいのちを受けるためにはまず古い生き方を捨てなければなりません。
聖書は別のところで約束しています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5:17)。