ときどき「週報の表紙写真は何を規準に選んでいるの?」という質問を受けます。
私は週報の原稿を「一太郎」というソフトで作成しているのですが、最近のバージョンは「感太」という機能が搭載されています。
これは画面上に季節折々にちなんだ写真が出てきては数分後に切り替わるというもので、今週の甘藍もその一つです。
引用する俳句や説明文は、やはり一太郎にオプションでついてくる『角川俳句歳時記』や『大辞泉』からです。
おそらく週報の表紙にキャベツの写真を貼るなんざ、全国の教会でうちだけでしょう。自慢になりませんが。週報はこちらです。
聖書箇所 ルカ6:1-11
1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
4 ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
7 そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
8 イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
11 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。
1.
「角を矯(た)めて牛を殺す」ということわざがあります。
曲がっている牛の角をまっすぐにしようとして、結果的には角ばかりか牛の命も奪った愚かな人から生まれた言葉です。
小さなことにこだわるあまり、本当に大事なことを失ってしまうことへの警告です。パリサイ人たちの姿がまさにそうでした。
彼らは、安息日は決してどんな仕事もしてはならない、というきまりを徹底して守ろうとしていました。
安息日は神がすべての仕事を終えて休息された日である、だから人間はこの日、一切の仕事をしてはならないのだ、と。
弟子たちは何の仕事をしたのでしょうか。麦の穂を摘んだのは収穫の仕事。それを手で揉み出したのは脱穀の仕事。
どうにもこじつけとしか思えません。しかしパリサイ人たちは大まじめでした。
彼らはあまりにも律法を守ることに一生懸命になり、常識さえも見えなくなってしまっていたのです。
パリサイ人にとって、安息日はたましいを休める日ではなくて、人々が神に従っているか行動を見張る日になっていました。
弟子たちが麦の穂をもんで食べればそれは安息日に禁止されている仕事にあたる、と批判する。
イエス様が手の萎えた人をいやすと、それは安息日に禁止されていることだ、と非難する。
そこにまったく喜びはありません。いのちの息吹はありません。彼らの礼拝は、規則でしばられて喜びもへったくれもありませんでした。
しかし大事なことは次のことです。では、私たちはどうなのか。
私たちクリスチャンにとって、安息日は日曜日、とくに礼拝に置き換えることができるでしょう。
私が洗礼を受けたとき、「礼拝厳守」ということが言われました。もっと古い世代は、「礼拝死守」と言われたそうです。
ただ、言葉だけが一人歩きして、礼拝が義務だから守らなければならない、という考えに皆さんが陥ることがないように、切に祈ります。
なぜ私たちは礼拝を守るのでしょうか。なぜ守らなければならないのでしょうか。
それは、この日曜日の礼拝が、私たちのたましいが健全に歩んでいくためにどうしても必要なものだからです。
今日の聖書箇所の並行箇所であるマルコ福音書では、イエス様はこう言われています。
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」(マルコ2:27)。
パリサイ人は誤解していました。神が安息日を造られた、だから人間はそれを守らなければならない、と。
しかしイエスさまが言われたのは、安息日は人間のために造られた、決して逆ではない、ということでした。この違いがわかるでしょうか。
安息日を主日礼拝に置き換えてみるならば、神が礼拝を定められたのだから人は礼拝しなければならない、ではないのです。
神が私たちのために礼拝の機会を造られたのです。私たちに本当の平安を与えることができるのは、この礼拝しかないからです。
2.
聖書の人間観は、しばしば人間を三つに分けて語ります。一つは「体」。肉体ですね。
二つ目は心、これは精神とも、たましいとも訳されます。そして、三つ目が「霊」です。
この中で、私たちが状態を自覚できるのは一番目の体と、二番目の心です。
たとえば、からだの疲れというのは自分ですぐにわかりますね。
心、つまり精神が疲れてくると、ストレスがたまったり、感情が高ぶったり、鬱的になる、これも自分でわかるわけです。
ところが三番目の「霊」に関しては、人は自分では把握できません。
霊は、神が人に与えたもうた、しかし私たちが意識できる心よりも、もっと下にある、「神のかたち」とも言うべきものです。
霊が疲れているとか病んでいるというのは人にはわからないのですが、しかし霊が力を受けるのはいかにしてかということは知っています。
それは私たちの心の奥底に与えられた、神の息であるからして、神に近づくことによってのみ、力を受け取ることができるのです。
体が疲れたときには体を休めます。心が疲れたときには、好きな音楽や趣味に昂じたり、人に悩みを聞いてもらったりして心を休めます。
しかし霊の疲れというのは本人にはわかりません。気力体力ともに充実していると思っていたら、がくんと疲れ切ってしまうことがあります。
礼拝というのは、私たちの霊がそのたびに神に近づき、力を回復していく営みです。
だからこそ、私たちは安息日に休むことを命じられているのです。
礼拝が始まり、招きのことばが語られるとき、私たちのからだが疲れていても、心はそぞろであっても、無意識の中で霊は必ず感じ取ります。
神から離れていたこの罪人が今神から子どもとして招かれているという恵みを。
賛美をささげ、祈祷者の祈りにアーメンと唱和し、こうしてみことばを聞き、また自らも祈るとき。
その一つ一つに私たちの心は無自覚であったとしても、たましいは確かに喜んでいます。
「今日の牧師の説教はよくわからなかったなあ」と帰り道で心がつぶやくときにも、
たましいは神に近づくことで受け取った力を、自分の傷つき疲れたところに注ぎ込んでいます。
それは毎日の三度の食事のようです。私たちの脳は、下からの味覚、胃腸からの満腹感とかで「おいしかった」かどうかを問題にします。
しかし実際に大切なのは、おいしかったかどうかより、どれだけ栄養として血肉になるかということです。
でも今食べた食事が、栄養になったかどうかなんて、私たちにはわからないわけです。
私たちの体は、礼拝よりも家で休んだほうがいいよ、と言う。私たちの心は、礼拝よりもレジャーに使った方がストレス解消になるよ、と言う。
ただ私たちの霊は、何をおいても礼拝に加わり、神の恵みをいただくことを望んでいるのです。
なぜならば霊とは、私たちが罪を犯し堕落した後も私たちの中に与えられている、神のかたちであるからです。
だから一回一回の礼拝を大事にしてください。その礼拝プログラムの一つ一つを大事にしてください。
そのように礼拝を大切にして生きるとき、クリスチャンは本当に成長していきます。
神様が求めておられる安息日、つまり礼拝にふさわしいのは、私の霊のために神に近づくことを何よりも大切にしたい、という思いです。
3.
しかし実際の問題として、礼拝を守りたくても守れない、という人もいるでしょう。
日曜日に仕事が入っている。家族の介護や、親族の間でどうしても抜けられない約束事がある。
実際、これからの超高齢化時代においては、教会に通うことが難しくなる、という人も増えてくることでしょう。
しかし、だからといって礼拝を守ること、つまり自らのたましいを神に近づけることをあきらめないでほしいのです。
仕事や介護の問題で礼拝に来られない人の申し出があれば、牧師は礼拝の回数をさらに増やすことも考えます。
足が弱くなり通うのが難しいということであれば、教会の送迎奉仕を整理していくこともします。
しかし神がこれほどまでに求めておられる礼拝を、人間のために造ってくださった安息日と礼拝を、かんたんにあきらめてはなりません。
今日の聖書箇所の中で、イエス様が右手の萎えた人に語った言葉は象徴的です。
主は、手の萎えた人に対して、「手を伸ばしなさい」と命じられました。
まるで無理なことを命じているように思います。よりによって手が動かない人に手を動かせ、とはどういうことか、と。
しかし人間の常識があきらめていることに対して、イエス様はあえて挑戦しておられるのです。
私たちがこれは無理、あれは無理という、その心の中のつぶやきを主は知っておられます。
しかしわが子よ、それに同調せず、むしろ人にはできなくても神にはできるという信仰を持ちなさい、と神は言われます。
そのような限界を越えた信仰こそ、私たち神の子どもたちのささげる礼拝にふさわしいのです。
どうかひとり一人が、礼拝の大切さ、安息日を守ることの大切さを覚えていきましょう。そこには神の愛が詰まっているのです。