今日の午後、同じ新潟市内にあります日本伝道福音教団・新潟聖書教会の創立40周年記念会がありました。
記念品として、こんなしおりを頂きました。(黒い外枠はこのブログの仕様で、実際のしおりにはありません)

草花をあしらったデザインと見せかけて、じつは左下にある動物が隠れているのがわかりますでしょうか。
こんな感じでいくつかのしおりのパターンがあって、そのクイズでも盛り上がった、楽しいひとときでした。
週報はこちらです。
聖書箇所 ルカ6:12-19
12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
14 すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、
16 ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。
18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。
19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。
1.
以前、この礼拝説教の中で次のようなことを言いました。
「クリスチャンにとって、みことばは三度の食事、そして祈りは呼吸である」と。
私たちは、疲れたり、壁にぶち当たったときほど、真剣に祈るようになりますが、それは決して理想的な態度ではありません。
順調なときも、逆境のときも、変わらない態度で祈るべきです。なぜなら祈りは呼吸であるのですから。
息苦しい時だけ呼吸します、という人がいるでしょうか。
時々浮かび上がって空気を入れ換える潜水艦ならいざ知らず、普通に生活しているかぎり、そんな人はいないはずです。
むしろ、最近では正しい呼吸の仕方といった健康法も広がりつつあります。
何が言いたいかと言えば、どのようなときでもたゆみなく祈る、ということをイエス様の姿から学びたいと願うのです。
今日の最初のところにはこうあります。12節、「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」。
ここだけを見ると、イエス様がこの時だけ山に登って祈っていたと誤解されるかもしれません。
しかし福音書のいたるところに、イエスが常に祈りを導き手として歩んでおられたことがわかります。
イエス様は、決して無限の体力を持ったスーパーマンではありませんでした。
罪は犯されませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同じような人間となられたのです。
福音を語りながら全国の町々、村々を回る生活の中でお腹をすかせることもあったでしょう。
たくさんの人々の病気を直したり悪い霊を追い出すなかで、疲れてうたた寝してしまうこともありました。
しかしイエス様にとって、力をいただく唯一の手段は、食べ物でお腹を満たすことでも、半日体を休めることでもありませんでした。
山の中でひとり、父なる神に向き合い、ひたすら祈る。その神との交わりが、イエス様の力の源でした。
祈りを通して、イエス様は父なる神様にすべてを打ち明けます。
パリサイ人や律法学者が今敵意をむき出しにして追い迫っていること。
あまりにも多くの人々が行き場を失った羊のように疲れ果てていること。
そして今、イエス様に代わって彼らをいやし、助けるための働き手を必要としていること。
その中で、12人の使徒たちが選び出されたのです。
今、悩みを抱えている人がいるでしょうか。あるいは逆に、さしたる問題もなく順調にいっていると考えている人がいるでしょうか。
そのどちらであっても、私たちに必要なのは、祈ることです。祈りとは、願い事ではありません。
ただ神様の前に静まって、自分の心のありのままを神様に打ち明けることです。
問題を抱えている人は、その苦しみを神様に打ち明けてください。
さしたる問題意識のない人は、数日、数週間を振りかえって感謝をささげてください。
どんなことでも、人に話す前に神様に打ち明けてください。
そのとき、私たちの心は父なる神様の愛の息吹をいただいて、喜び踊ることでしょう。
2.
私たちは、順境のときも逆境のときも、常に変わらぬ態度で祈りのわざに励んでいきたいものです。
そして祈りは、私たちの心から能力主義やしがらみによる束縛を捨て去ります。
なぜなら、祈りとは私の判断ではなく、神のみこころを求めることだからです。
イエス様は12使徒を、新しい神の国の基にされようと願っておられました。
パリサイ人や律法学者によって頑なに固まってしまっているイスラエルではなく、神のみことばと御霊によって歩んでいく自由の国。
それが12使徒を選ばれた理由です。なぜ12人でなければならないのか。
彼らが、イスラエル12部族を代表するひとり一人となるためです。
この人は性格が素直だ。あの人は事務能力に長けている。イエス様はそんなリストをもとにして12使徒を選ばれたのではありません。
ただ祈りを通して彼らを選んだのです。私たちは他人を見るとき、人の性格や能力を基準としてその人となりを判断してしまいます。
あるいは自分にはこれが足りない、自分のこんなところがいやだ、と自分自身さえもさばいてしまうことがあります。
しかし神はそのように人を見ておられません。
イエス様は祈りを通して、人格によらず、能力によらず、神の求める12使徒を選び出されました。
私たちも、自分ではなく神がその人をどのように見ておられるか、を考えながら、人々を見つめていきましょう。
そのときに教会は、人の目や人の言葉によって自分を評価する生き方から解放された、本当の意味での自由の国となれるのです。
私たちは他人からどのように見られているのでしょうか。
大事なことは、人からどのように見られていようと、神の目にはあなたは高価で尊い存在として映っているということです。
13節では、イエス様は徹夜で祈られ、そして夜明けに12使徒を呼び寄せられた、とあります。
これは、たとえ彼らがどんなに自分がふさわしいと言っても、イエス様が呼び寄せられないかぎり、その12人には選ばれなかった、ということです。
この中にいる誰一人として、この場にふさわしくない人はおりません。
神が選び、招いてくださったからこそ、洗礼を受けているか受けていないかは関わりなく、ひとり一人が礼拝の恵みにあずかることができるのです。
信仰とは私たちがキリスト教を選ぶということではなく、神が私たちを子どもとして選んでくださったことです。
礼拝に何年も出席しているけれどもいまだにイエス・キリストや、救いについてわからない、という人もいるでしょう。
クリスチャンがそうでは困りますが、今は求道者の方の話をしています。
救いとは、聖書のすべてに納得して信じる、ということではありません。
わからないことが多くあったとしもて、神が自分を選んでくださって、今ここにいるということを信じること。
神が引き寄せてくださったから、ここにいるのだということを受け入れること。
それが、イエス様の十字架を受け入れるために必要な信仰です。
あなたは偶然や自分の意思でここにいるのではありません。むしろ神様がはるかな計画の中で導いてくださり、今ここにいるのです。
その神の計画は、いつまでもガラスの外から眺めていても自分のものにはなりません。
受け取るためには、聖霊に押し出されて一歩前へ、一歩中へ進むことが大切なのです。
その後は、すべて神様が責任をとってくださいます。
3.
最後に、弟子と使徒は違うということを語らせてください。弟子については、イエス様のまわりにはすでにたくさんの弟子たちがいました。
しかしイエス様がここで選ばれたのは、弟子ではなく使徒です。使徒とは、遣わされた者という意味です。
弟子はもっぱら師匠のそばで技術や教えを学びますが、使徒は師匠のもとから外へと遣わされる者たちです。
イエス・キリストが使徒として12人を遣わしたというのは、全権大使です。
ご自分の持っておられる権威をすべてゆだねて、神の国を宣べ伝えるために遣わしたのです。
責任は、すべて主イエスが引き受けました。
そして人格だとか能力ではなく、ただ神のみこころによって選ばれました。
私たちひとり一人の信者もそうなのです。人格や能力ではありません。
しかし信仰を告白して救われたという事実が、私たちひとり一人が神の全権大使である唯一の証明書です。
私たちには、人を救う力はありません。救うのはあくまで神のみわざであり、聖霊の働きです。
しかし人々に福音を伝えていくことはできます。いや、私たちクリスチャンが伝えなければ、だれが伝えることができるのでしょうか。
豊栄キリスト教会が豊栄に福音を伝えないで、だれが伝えるというのでしょうか。
聖書が約束しているとおり、私たちは遣わされた者であり、ひとり一人が使徒です。
そして遣わされていくためには、ひとり一人がしっかりとキリストに結び合わされることが必要なのです。
常に祈りましょう。すべてを感謝しましょう。
人格でも、能力でもなく、ただイエスの十字架によってのみ私たちを認めてくださり、全権をゆだねてくださった神にしがみつきましょう。