夏休みに入ると、市内のミッションスクール、敬和学園高校の生徒さんが学校の宿題で礼拝に出席します。
今日から8月の終わりまで、説教の内容も高校生に向けたものになりますが、ご了承ください。
週報はこちらです。
聖書箇所 第二コリント4:7-10
7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
1.
ゴッホという、有名な画家がおります。
彼の名前と数々の作品は今日でもよく知られていますが、彼が牧師の家庭に生まれたことはほとんど知られていません。
牧師である父の影響を受けて、画家になる前のゴッホは、キリスト教の伝道師を目指してオランダの炭鉱で働いていました。
炭鉱で働く貧しい人たちの気持ちを理解するために、ゴッホは彼らと同じみすぼらしい服を着て、彼らの生活に溶け込んでいこうと努めました。
ある日、彼はひとりの貧しい炭鉱夫が、石炭を掘る機械を包んでいた布を、着るものがないのでシャツ代わりに身にまとっているのを見ました。
そのシャツの背中には「こわれものにつき注意」と書いてあったそうです。そのときにゴッホは思いました。
「こわれもの。そうだ、本当のこわれものは、これが包んでいた機械のほうではない。本当のこわれものは、私たち人間なんだ」。
残念ながらゴッホは、その後牧師の道を絶たれ、画家としての人生も最後には心をこわしてしまい、若くして自ら命を絶ってしまいます。
しかし彼の絵がいまだに人々の心を打つのは、こわれものである私たち人間の弱さ、そしてそこに寄り添おうとする優しさが、彼の絵の中に現れているからかもしれません。
2.
学校が夏休みに入り、今年も敬和学園の生徒さんが礼拝に来てくださいます。
敬和は「自分探し」を教育のテーマに取り入れていますが、人間とはこわれやすいものなのだということを心にとめていただきたいのです。
今日の聖書には、「土の器」という言葉が出てきます。二千年前にイエス・キリストを信じて人生を変えられた、パウロという人の言葉です。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。
彼はイエス・キリストに出会うまでは、自分の力を誇り、自分の正義を信じて疑わない人でした。
そしてイエスを偽物の救い主、クリスチャンを偽の神を伝えている罪人たちと決めつけて、手当たり次第に捕まえて殺すような人間でした。
しかし彼がイエス・キリストに出会ったとき、彼は人生が変わりました。そして自らを土の器と呼ぶようになったのです。
それは、人間は強いようで弱く、弱いようで強いということ。
自分の力に頼っているときにはことのほかもろく、しかし自分のもろさを受け入れて神に道をゆだねるとき、むしろ強いということです。
神が私たちのもろさを通して力を表してくださると信じるとき、何かが確かに変わっていくのです。
今、世界はいろいろなところでこわれつつあります。
モラルがこわれています。政治や外交がこわれています。人々の生活が、心がこわれています。
個人がこわれ、家庭がこわれ、社会がこわれつつあります。
個人も、家庭も、社会も、それを構成しているのは人間です。ほかならぬ、私たち人間です。
もっともこわれやすいもの、それはゴッホが悟ったように、人間そのものです。
そしてそれはどこか遠くにいる人間ではなく、私自身のことです。
ひとり一人がそう考えることができるとき、人の弱さに寄り添うというのが上から目線ではなく、生きた慰めの言葉となるのです。
ある先生が、理解するという言葉を意味するアンダースタンドは、アンダー、下にスタンド、立つということだと言っていました。
自分を人よりもましだと考えている人が、人の悩みを聞いていられるのは30分が限度です。
30分を過ぎると、面倒くさくなって、自分のようになれば問題を乗り越えられるという風に言い出します。
でも、自分も含め、人はこわれやすいものなんだという人間理解が、イエス・キリストがそうであったように、人を心から受け入れることができます。
3.
人間。それはあまりにも緻密で、あまりにももろい存在です。ゴッホも、パウロも、そのことをよく知っていました。
ゴッホは「ひまわり」と呼ばれる作品を生涯で七作描き上げていますが、そのどれも一輪挿しのひまわりはありません。
一番少なくても三本、多いものは15本のひまわりが、一つの花瓶の中に並んでいる構図で描かれています。
人は一人では生きていけません。どんなにその花の中心にたくさんの種をもつひまわりであっても、孤独では生きていけません。
人はお互いにいたわり合い、支え合うことを必要としているのです。
それでも私にはだれも助けてくれる人がいないと思うとき、天を見上げましょう。
そこには、私たちを何よりも大切に思ってくださる神様の愛が注がれています。パウロは、その事実をこのような言葉で表現しています。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」。
なぜパウロは、ここまで大胆に告白することができたのでしょうか。
イエスとの出会いによってクリスチャンとなった彼は、イエスを救い主として信じないユダヤ人たちから逆に憎まれ、苦しめられることになりました。
それでも彼は倒れなかったのでしょうか。いや、倒される、と言っているのです。決してスーパーマンではありませんでした。
でも、倒されますが、滅びません、とはっきりと言うのです。これが、イエス・キリストが私たちに与えてくれる力と確信です。
私自身は土の器のようなこわれやすい存在にすぎない。しかし神は、そんな私を優しく包み、常に守ってくださる、と言うのです。
聖書は、私たちすべての人間は、神によって作られた存在であると書いています。
「自分探しの旅」は、長さはそれぞれで異なりますが、その出発点は、私は神様によって作られた者だというところにたどり着きます。
神が私たちを作ってくださったのであれば、ご自分の自慢の作品である私たちを、神様が常に気にかけてくださらないはずがありません。
「こわれものにつき注意」。それは私たちに対する、神様のまなざしです。
こわれものである、私たちを守り、見つめていてくださる方がおられます。それが、確かに生きておられる、永遠の天の神です。
この神ご自身は、上から見守るだけではなく、私たちを罪の中から救うために、人として地上に降り、十字架にかかってくださいました。
それがイエス・キリストです。どうかひとり一人が、イエス・キリストの愛を心におぼえていただきたいと願います。