更新が遅れて申し訳ありません。言い訳ですが、土曜日にパソコンのモニターが壊れたのです。
朝、
押し入れから古いモニターを探し出し、何とか説教原稿はできあがりましたが、このモニターもいつ壊れるかわからない、ということで、
映らなくなったモニターを修理してもらうために、今日朝イチで隣町のジョOシンへ。
かくかくしかじかと説明し、お店のパソコンにつないでみると、何とちゃんと映るではありませんか。
(そんな!教会を出る直前にもちゃんと確認したのに...。)口をもごもごさせる牧師と、ドヤ顔のジョ○シンのお兄ちゃん。
「機械は壊れたことを誰かに証明しようとすると動き始める」というマーフィーの法則を思い出しました。
それとも、モニターを車のトランクに載せて、イナカ道をガタゴト走った衝撃で、目覚めたのでしょうか?
週報はこちらです。
聖書箇所 マルコ6:30-32
30 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
32 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
1.
先日、敬和学園高校から今年の学校案内のパンフレットを戴きました。
しばらくぱらぱらとめくりながら、私も学生だった頃を思い出して、懐かしい思いがいたしました。
三年間で何が一番印象に残っているかというと、私の場合はフェスティバルという、よその学校で言うと学園祭のようなものです。
ここにはこんな紹介文が書いてあります。
「3年生をリーダーに3学年縦割りの6つの連合に分かれて、合唱、演劇、ダンス、パネル、競技などに挑みます。
生徒が主体的に2か月以上かけて取り組む最大の行事です。本番の2日間に敬和生はエネルギーを燃焼させます」。
さすが上手にまとめてあります。「二日間に敬和生はエネルギーを燃焼させます」なんて、要するに燃え尽きてしまうのです。
準備に二ヶ月かけて、二日間で完全燃焼して、それから元通りになるまでしばらくかかりそうなものですが、おちおち燃え尽きていられません。
というのはフェスティバルが終わってすぐに期末試験が始まるからです。そこでがっと落ち込んで、そのまま夏休みに突入です。
数年前に敬和の学校新聞にある学生がこんな文章を書いていましたので、紹介します。
フェスティバルのすばらしさ、それは学生全員が主役になれることだ。
学生の誰もが何らかの部門に参加し、一人としてお客様ではいられない。
一人が手を抜けば、全体が落ち込み、一人が欠ければ、全体のバランスが崩れる。
しかし、フェスティバルが終わると、それぞれの学生はまた一人に戻る。全体ではあれだけ大きなことができたのに、一人では何もできない。
そのギャップに私たちは戸惑い、苦しむ。しかしその苦しみがあるからこそ、自分自身のほんとうの姿が、はっきりとわかってくる。
2.
大勢で集まって何かをやり遂げたとき、私たちは感動に包まれます。
それを最も極端なかたちで味わえるのが敬和のフェスティバルかなと思います。
しかし感動というのは、一人になってその経験をゆっくりと思い巡らすときに、消え去るものではなくていつまでも残るものになるのです。
今日はぜひ聖書から、そのことを学んでいきましょう。30節をもう一度お読みします。
「さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した」。
ここに書いてある、「自分たちのしたこと、教えたこと」とは何でしょうか。
弟子たちがイエス様の権威をいただいて、ユダヤの町々に遣わされたこと。
そしてイエス様からゆだねられた力によって、重い病気や悪霊につかれた人々をいやし、人々に神の国の福音を伝えたことを指しています。
その数々の勝利と賞賛がもたらしたものは、疲れも吹き飛ぶほどの高揚感でした。
弟子たちは、もっともっと働きたい、もっともっと、と思ったことでしょう。しかしイエスは、彼らに休むことを命じられたのです。
「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と。
寂しい所へ行きなさいというのは、あなたに自信を与えた、華やかな舞台から一度降りて、一人になりなさいということです。
先ほどの先輩の言葉を借りるならば、「全体であれだけ大きなことができたのに、一人では何もできない」という現実を見つめることです。
全体の中で動き回っていた自分と、一人になったときの自分。どちらが本当の自分でしょうか。
「自分探し」というのは、一人になったときの頼りない自分を静かに見つめることのできる勇気を持つということです。
だからこそ、まるでジェットコースターのような慌ただしい敬和の高校生活の中では、毎日礼拝という一人になる時間が確保されています。
礼拝は、みんなで神を見上げる時であると同時に、ひとりになって自分自身を見つめる時でもあります。
3.
礼拝とは、不思議な時間です。
これだけ多くの人々が集まっているにもかかわらず、その本質はそれぞれが一人になって神様と向き合うという時間だからです。
ここでは人の目を気にする必要はありません。人と合わせる必要はありません。
しばしば誤解されやすいのですが、礼拝の中で賛美歌をみなで歌ったり、声を合わせて聖書を読むというのは、礼拝の中心ではありません。
中心は、そこに集まってはいてもただ一人神に向かい合うということです。そうでなければ、礼拝に出ても疲れたという印象しか残らないでしょう。
キリスト教の信仰は、個人の決断を尊重します。つまり、お父さんが信じているから私もイエス様を信じますというのではありません。
たとえすべての常識や世論の流れが右へ向かうときも、聖書に基づいて、たった一人でも私は左と告白する、それがキリスト教信仰です。
なお、ここで右とか左といっているのは、政治的な右翼とか左翼の意味ではないことを申し添えておきます。
だから私たちの礼拝は、一人になって神様と向き合うときです。ひとりで向き合うことを恐れない人が集まっているところ、それが教会なのです。
神様は、あなたを何よりも大切な者として愛しておられます。だからあらゆるものを備えて、私たちの人生を導き、盛り立ててくださっています。
しかし自分の知らないところで神様がすべてを良き方向へと導いてくださっているという感謝を忘れてはなりません。
そのために、私たちはひとりになって自分自身がいかに小さな者であるかということを見つめなければなりません。
ひとりになることを恐れてはなりません。ひとりにならなければ、本当の自分は見えてこないのです。
この十年来のスマートホンやタブレットの普及は、人々からひとりになる時間を奪ってしまったように思えます。
交通機関の中でスマホを開いて何か指を動かしている人、それはひとりになってもひとりになることを拒絶している姿のように思えます。
せめて週に一回だけでも、礼拝を通して自分自身を見つめることを生活の一部に取り入れたらいかがでしょうか。
社会はどんどんスピードアップし、ここに生きる人々にも同じようにスピードを上げて生きていくことを求めています。
しかしどんな車でも、常にトップギアで走り続けていたらこわれます。
時にはあえてローギアに戻し、あるいはブレーキをかけて、ひとり静まる時間を必要としています。
イエス・キリストは別のところでこう言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。
しばし、立ち止まって、自分自身の心を休ませる、それが礼拝です。ひとりになって、自分の歩みをしばし振りかえってみましょう。