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聖書箇所 第二コリント5:17-21
17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
1.
今日8月9日は、長崎に原爆が落とされた日です。そして今年はそのうえに「70年前に」という但し書きが付く年でもあります。
「七」という数字は聖書では完全数を意味していますが、「七十」という数字も同じように完全という意味があります。
たとえば旧約聖書の中には、イスラエル民族が罪を犯したさばきとして国が滅び、バビロン帝国の奴隷となるという箇所があります。
その時に神は七十年が過ぎた時、あなたがたは再び帰ってくることができる、と語っておられます。
しかし私たち現代の日本にとって七十とは何でしょうか。
完全を表すよりは、むしろこれだけ経ってもまだ完成できないという象徴的数字であるかもしれません。
70年前に広島・長崎に原爆が投下され、8月15日の終戦を経て、この国は平和憲法を持つに至りました。
しかし70年経った今も、日本が犯した罪は中国、韓国などの隣人たちからはいまだに完全に許されておりません。
むしろ日本人の悔い改めなどは、ただの見せかけではないかと批判され、和解の道は今なお果てしなく遠いものとなっています。
「和解」を和英辞書で引くと、「make peace」という言葉が出て来ます。「make peace」、直訳すると「平和を作る」。
おそらくクリスチャンの方は、福音書の中にあるイエス・キリストの言葉を思い出すことでしょう。
「平和を作り出す者はさいわいです、その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」。しかし私はこう思います。
国と国との和解、それは確かに大切なことですが、将棋でいえば歩兵で王将を取ろうとするようなもの、つまりどこか無理をしている戦いです。
将棋がまず自陣の歩兵から一つずつ動かしていくように、世界に平和を作り出していくためには、まず自分の心の中に平和を作り出すこと。
そして家族とのあいだに。友人とのあいだに。隣人とのあいだに。そのように少しずつ平和の種を撒いていくことが必要ではないかと思います。
2.
今日の聖書箇所は、パウロという人が、教会への手紙の中で語った言葉です。
何度も「和解」という言葉が出て来ますが、一番初めに書かれていることに注目してください。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」。
すべての和解の出発点は、まず私がイエス・キリストによって新しく生まれ変わることにある、と彼は言います。
もし自分が変わらないまま、しかし他人を変え、国を変え、世界を変えようとしても、それはむなしいものです。
なぜなら、私は変わりたくないということだったら、他の人もきっと変わりたくないでしょう。
まず自分がキリストによって変えていただく、私がその決断を通らなければ、だれも私を見て自分を変えようとは思わないでしょう。
私たちは、どんな人間であっても、誰とも関わらずに生きている人などおりません。
ある少年が引きこもりになり、家族とまったく顔を合わせることを拒絶するようになりました。
では彼は世界から自分を切り離してしまったかと言えば、自分の部屋でネットゲームに何時間も費やしていました。
家族との関係を自分の生活から押し出した代わりに、彼はネットの向こう側にいる、同じような人々との関わりに生きていたのです。
でもそれは、ゲームの中で別人格を演じている、仮想の自分に過ぎません。
しかしこの現実の世界は、この少年にとって素顔のままで、ありのままで生きるにはつらすぎる。
彼は何年も引きこもりの生活を送っていますが、この生活を変えることができるならば変えたいと願っています。
しかしそのきっかけをどこで手に入れるのか、教えてくれる人がいません。
「和解」とは、自分と相手との関係が変わることです。トラブルメーカーからピースメーカーに変わることです。
その意味で、和解とは自分を変えることでもあります。でもそれは、自分の力ではできません。
聖書はそれを、人間が生まれながらに背負っている「罪」、そして「堕落」という言葉で表現しています。
しかし「だれでもキリストのうちにあるなら」と始まるこの言葉を通して、聖書は私たちに約束しています。
イエス・キリストを信じることによって、私たちは神とのあいだに和解が与えられ、それは少しずつ私たちを変え、私たちの周囲を変えていく、と。
3.
しかし人は、神との和解を受け入れ、自分を変えていくことを拒みます。
それは、その心の中に潜んでいるものがあるからです。それは何でしょうか。過去に対する執着心です。
人との和解においては、「あの人にこれだけ傷つけられた」という負の記憶が、和解のために右手を差し出すのを拒みます。
また神との和解においては、仕事や家族、親族がどう考えるかということが気になって、イエスを信じますと決断することができません。
人はすでに得たこの世の物を捨てることができないために、和解への一歩を踏み出せないのです。
もしそれに気づいたら、どうすればよいのでしょうか。過去を変えるのです。過去は今さら変えられない、と言うでしょう。
しかし私が言っているのは、自分の目で過去を見ることをやめて、神様の永遠の眼で過去を見るということです。
何をしても変われなかった、過去をそのように見ることをやめるのです。
変われなかったのは、今日変わるため、明日も変わり続けるため、という神様の眼によって過去を見つめ直すのです。
そのように一歩踏み出すときに、神が私たちにあらゆるものを備えてくださっていることに気づくでしょう。
パウロは別の手紙の中で、こう書いています。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」。
人は、手にあまりにも多くのものを抱えすぎているがために、和解のための右手を差し出すことができないのです。
抱えているものは、人によってまちまちでしょう。
家族、仕事、己のプライド、経済的不安、人間関係、しかし抱えているものが何かは、大した問題ではありません。
大事なことは、和解のために抱えているものを一旦捨てるということです。
失ってこそ、得るものがあります。捨ててこそ、与えられるものがあります。
もしあなたが隣人との和解を拒んでいるならば、まず自分の中のわだかまりやプライドを捨てるべきです。
そのとき、捨てたものよりはるかに大きなものが心の中に迫ってきます。
イエス・キリストが私のために死んでくださった、そしてあの人のためにも死んでくださった、という思い、十字架の本当の意味が見えてきます。
和解への道は、決して歩きやすい安全な道ではありません。
自分の足で一歩一歩踏みしめながら、何度も蹴躓きながら歩んでいくしかない道です。しかし決してひとりぼっちの道ではありません。
常に神が共におられ、そして疲れ果てた私たちを神が背負って歩んでくださる、そういう道です。
私たちひとり一人も、和解へ向かって格闘していく道を選び取り、そして歩んでいきたいと願います。
私たちが人と和解する前にまず神と和解するために、ご自分の御子を十字架にかけてくださった、神と共に、今週も歩んでいきましょう。