最近の記事

2015.8.23「見える世界を突き抜けよ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 マルコの福音書8:22-26
 22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
25 それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村に入って行かないように」と言われた。

1.
 以前、ある催し物に出席したとき、赤ちゃんが生まれてくる映像が映し出されたことがありました。
ただちょっと変わっていて、普通は外から、つまりお母さんの目線で、赤ちゃんがお腹から出て来る様子を撮りますが、それは外からではなく内側から、いわゆる3D(スリーディー)ですね、赤ちゃんの目線で撮られているのです。
最初は暗いトンネルのようなところをゆっくりと進んでいるのですが、だんだんと先に光が見えてくる。
そして光はだんだん大きくなり、ぼんやりと外の様子が垣間見えるくらいまで近づいて、そしてするりと、大きな世界が広がる。
そして頬を紅潮させて、お母さんが画面の向こうからこちらにこう呼びかけるのです。
「Welcome to the world」、訳すと「この世界へようこそ」。
 ひとつの命が地上に生み出されるというのは、喜びと光に満ちあふれた世界へ飛び出していくということです。
もちろん、現実の問題として「この世界へようこそ」と祝福できないような中で子どもが生まれてくるということもあるかもしれません。
しかし聖書にこんな言葉があります。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(イザヤ49:15)。
確かに神様は、どんな小さな命に対しても「この世界へようこそ」と声をかけてくださったからこそ、私たちは今ここにいるのです。

2.
 この盲人がイエス様によって目を開いてもらった光景も、そんな3Dの場面を想像してみたらどうでしょうか。
真っ暗だった画面に、真一文字に光が走り、上下に膨らんでいく。そして外の光景がぼんやりと映っていく。
しかしこのとき、彼の目に映った光景は「この世界にようこそ」という暖かな光が溢れている世界ではありませんでした。
確かに人が歩いていました。しかしそこに表情は見えません。血が通っている様子もありません。
それは木のようでした。顔もなく、体温もなく、言葉もなく、木が歩いているような世界でした。
 イエス様が、最初から完全な視力の回復を与えなかったのはなぜでしょうか。
それは、この世界はまるで木が歩き回っているような世界であることを彼にまず垣間見させるためでした。
人々は確かに存在しています。しかしやがては朽ち果て、簡単に折れてしまう木の姿で。血も肉も通っていない、骸骨よりももっともろい姿で。
彼らは夢と楽しみを求めて歩き回ります。
やがてはなくなってしまうものをためて、消え去ってしまうものを集めたあげく、やがては自分自身が消え去ってしまいます。
イエス様はこの盲人の心をご存じでした。「目が見えるようになれば、すべてが変わる」という思いを。
しかし彼は知る必要があったのです。この世界は彼が考えているほど完全な世界ではないということ。
そして不完全なものに対する希望の行き着く先は、むしろ依存であるということを。

 子どもの頃に読んだ本の中に、グランドソフトボールを舞台とした小説がありました。
グランドソフトボールといってもぴんと来ないかもしれませんが、かつては盲人野球と呼ばれていました。
全盲のピッチャーが球を転がし、やはり全盲のバッターが音を頼りにそれをゴルフのスイングのように打ち返します。
そんな全盲バッターのひとりがその小説の主人公、そして彼をずっと応援している、やはり全盲の女の子が小説には登場します。
小説の終盤、この主人公は手術を受けて、目が見えるようになります。
そしてお見舞いに来た女の子に、「○○ちゃん、想像していたとおりかわいいね」と軽い気持ちで言ってしまう。
すると彼女は喜ぶどころか怒り出して、こう言うのです。「私たちは目が見えないから、普通の人が見るようには、物事を見ないで生きてきた。
あなたも目が見えない分、心の目を開くことでボールを打ち返してきた、だから私はあなたを応援してきた。
でもどうして今、私の顔をかわいいというの。そんなことでは、今まで見えていたものがかえって見えなくなってしまうよ」。

 イエス様の前に連れてこられた盲人も、この主人公と似ています。
確かにそれまで見ることのできなかった、色彩に溢れたこの世界に彼は飛び出すことができる。
しかし注意しなければ、それはこの世界に依存することになる。
確かに世界は明るい。だがその明るさは永遠ではない。やがてはすべてが朽ち果てて、音を立てて崩れていく。
イエス・キリストは彼がこの世界に埋没してしまうことがないように、あえてぼんやりとした世界を垣間見させました。
すべてのものがはっきりと見える前に、まず彼は木のように人々が歩いているのを見なければなりませんでした。
それがまず最初に彼の目に焼き付けられることで、その木のように見える人の世界の、さらに先にあるものを見つめるために。
朽ちるものではなく、朽ちないものを。消えていくものではなく、決して消えることのないものを見つめるために。

 旧約聖書の伝道者の書には、こんな言葉があります。
「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。
しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」(伝11:9)。

 この人生はすばらしいものです。赤ん坊が闇から光に飛び出していくように、溢れる喜びで満ちています。
しかし目に見えるがやがてはなくなってしまうものをどれだけ手に入れるかよりも、決して目には見えないが決してなくならないものを求めてほしい。この終わりある世界は、私たちに本当の平安は与えることができません。
本当の平安は、イエス・キリストだけが与えることのできるものなのです。

3.
 今日の物語は、私たちに何を見つめ続けるべきなのかということを教えています。
「見る」ということと「見つめる」ということとは違います。多くの人々が見ているのは、木人間たちが徘徊する世界です。
それは今、現実に私たちの目の前にある世界です。
私たちは確かに生きているはずなのに、心と心を通わせることのできない世界、それがこの世界です。
この世界を見つめ続けるということは、この世界を侵食している罪の現実をしっかりと見つめ続けるということです。
そして、それは非常につらく感じられることもあるし、忍耐が必要ともされることです。
先日の70年談話で安倍首相が、「将来の世代に謝罪を背負わせない」ということを言われました。
私はその気持ちはある程度理解できます。しかし理解できることと、同意することとは違います。
しかしかつて私たち日本人が犯した罪は、この世のすべての罪がそうであるように、決して歴史からも、人々の心の中からも決して消え去ることはありません。
この罪の重荷から解放されるためには、ただ一つの道しかありません。
すべての罪のさばきをイエス・キリストが十字架で背負ってくださったと、私たちが信じることです。
キリストがこの盲人に対して、二度にわたって目を開いてくださったのは、最初に見た世界にすべての希望を置かないためです。
本当の希望は、ただイエス・キリストの十字架に置かなければなりません。
すべてのものが朽ち果て、消え去った後に、すべての人間は自分の犯してきた罪のさばきを受けなければなりません。
しかしイエス・キリストを信じる者は、この方が十字架の上で流してくださった血潮のゆえに、決してさばきに会うことはないのです。
ただ、このイエス・キリストだけを見つめ続けていきましょう。
posted by 近 at 13:57 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: