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聖書箇所 『コリント人への手紙 第二』1章3-5節
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1.
先日、この新潟山形宣教区に所属している12教会の牧師とその家族で退修会、平たく言えばお泊まり会を行いました。
今年は村上にある、道の駅に併設されている温泉施設に泊まりました。
敷地内には日帰りの露天風呂もあるのですが、小さなキャビンがいくつかあって、そこに泊まることもできます。
しかもそのキャビン一つ一つに温泉がひいてあって、ユニットバスでも温泉を楽しめるというところでした。
二、三人の先生と一緒にキャビンで過ごし、お風呂をいただいたあと、牧会の課題からプライベートに至るまで、夜が更けるまで話し込みました。
するとある先生が私の義足に触りたいと言うので、いいですよ、どうぞ手に持って下さい、すると、うわ、思ったより全然重たい、
そこからしばらくのあいだ質問攻めに遭いました。
耐用年数はどれくらいか、いくらくらいするのか、どうやって足に取り付けるのか、転ぶことはないのか、などなど。
質問に一つ一つ答えながらも、何かすごく不思議な気持ちになりました。
というのは、高校生の頃に同じような質問を受けたことがありましたが、私はその時に答えながらも、心のどこかにちくちくと痛みが生じていました。しかし今は、とても自由に過去を振り返り、話すことができる。
時間が経ったからでしょうか。いや、むしろイエス・キリストを信じて、その日以来日々少しずつ心が変えられているからだと思います。
いま、私は障がい者であることを嘆きではなく、感謝をもって受け入れることができます。
障がいを得たゆえに、わかり得た痛みがあり、それが私の人生をかえって豊かなものにしています。
問題は、自分が受けた障害を、悲しみとして受け止めるのと、感謝として受け止められるのの、分かれ目はどこにあるのか、ということです。
あの口で絵を描く星野富弘さんが、自分の経験を感謝で受け止められるまでに数年かかったと聞きます。
しかし問題は、時間ではないのです。今日の聖書箇所の中で、パウロはコリントの教会の人々に真っ先にこう書き送っています。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」。
2.
ここには、苦しみと慰めという二つの言葉が語られています。
星野富弘さんのような大事故に遭い、そして同じように首から下がまったく動かなくなったという人は他にもいます。
そしてその中には、どれだけ時間が経っても、未だに自分の人生に納得できないという人もいるはずです。
星野さんが首から下は動かなくなってしまったことさえも感謝して受け止めることができるようになったのは、時間が経ったからではありません。
人生のある時に「慰め」を受けたからです。だれからの慰めでしょうか。聖書が言うように、それは神からの慰めです。
そして神から慰められた者は、どのような苦しみにある人をも慰めることができるようになる、と聖書は約束しています。
聖書が語る、苦しみと慰め、それは限定的なものではなく、無限大のものです。
まず、「どのような苦しみのときにも」私たちは神から慰められる、と言われます。
そして「どのような苦しみにある人をも」慰めることができる、と言われます。
貧しい人は貧しい人しか、全盲の人は全盲の人しか慰められない、ということではないのです。
星野さんの絵を見て慰められるのは、同じように不慮の事故に遭い、彼と同じような体になってしまった人たちだけでしょうか。
もちろん違います。彼のような苦しみは経験していない人々の心をも慰めます。
なぜならば、聖書が約束しているからです。神から慰めを受けた者は、どのような苦しみにある人をも慰めることができる、と。
神は、私たちを慰めを伝える者にするために、苦しみの経験をもムダにされないお方なのです。
私が骨肉腫という一種の癌を患ったのは中学二年生の秋でした。足の切断手術をしたのはそれから約一年後の冬です。
それからも約一年にわたって、抗がん剤治療のために入退院を繰り返しました。
それから30年経った今でも、私は半年に一度、大学病院に行って診察を受けています。
主治医によれば、私は「完治した」のではなく「経過観察中」なのだそうです。
もちろん、30年も経って骨肉腫が再発するという可能性は極めて低いのですが、ゼロではない、とのこと。
しかし私は、完治ではなくて経過観察であるということに、むしろ感謝しています。
それは、与えられている一日一日が、神様の恵みによるのだということを教えていただけるからです。
パウロは、それを手紙の別のところで「肉体のとげ」と呼んでいます。神様はそのトゲを抜くことのできるお方です。
しかしあえてトゲを残されることもあります。そしてトゲがかえってその人の人生を豊かにする、ということも多いのです。
3.
以前、病院の待合室でたまたま隣に座った人と話し込んだことがありました。
「この病気のおかげで、私は今日与えられたいのちの大切さがわかった」とその方は言われ、私もうなずきました。
しかし私たちは勘違いをしてはなりません。いのちの大切さを教えてくれたのは、「病気のおかげ」ではありません。
病気にかかることを通して、いのちのありがたみを教えてくださった神様のおかげです。
私たちが感謝すべきは、病気そのものにではなく、病気を用いて彼の人生を導いてくださる神さまに、です。
そして神様が私たちに与えてくださったのは、病気を通していのちの大切さを教えてくださったことだけではありません。
愛するひとり子イエス・キリストを、私たちの身代わりとして十字架につけて、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださったのです。
イエス・キリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちは永遠のいのちを得たのです。
病院に行くと、そこには病を恐れる人たちであふれています。病はほうっておくと死に至るからです。
しかしその死を滅ぼすことのできる方がおられる。それがイエス・キリストです。
イエス・キリストは十字架の上で、私たちの罪の代わりに死んでくださいました。そして三日目によみがえられました。
もし私たちがイエス・キリストを救い主として信じるならば、もはや死を恐れる必要はありません。
人が死を恐れるのは、死んだ後、神様の前に出て罪をさばかれることを本能的に知っているからです。
しかしキリストを信じた者は、決してさばかれないと聖書は約束しています。
すでにキリストが、私たちの身代わりになってさばきを引き受けてくださったからです。
これ以上の慰めはあるでしょうか。あなたはキリストを信じ、永遠のいのちを与えられた。これにまさる慰めはありません。
私たちをとりまく苦しみが激しければ激しいほど、私たちが受けた慰めが、死さえも恐れる必要のないすばらしいものであることがわかるのです。
私たちは長い人生の旅路で痛み、傷つきます。
しかしキリストを心に受け入れるとき、すべての痛み、傷、苦しみは、このキリストに出会うためだったことに気づくのです。
そしてこれからは、苦しみを避け、痛みから逃げ回る人生ではなく、自分の傷跡を通して、どんな人をも慰めることができる人生が始まるのです。
今日、イエス・キリストを救い主として受け入れませんか。
そこに待っているのは、苦しみや死を恐れることもなく、むしろ慰めを周りに与えていくことのできる、すばらしい人生なのですから。