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聖書箇所 『ルカの福音書』6章20-26節
20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。
いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
24 しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。
25 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。
いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
26 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。
序.
7月、8月には、たくさんの敬和の学生さんたちが礼拝に出席してくださいました。
多いときには20人近い方々が来てくださり、椅子を増やすのに苦労したこともありました。
夏休みの宿題のためとはいえ、礼拝に出席してくださるというのはやはり嬉しいことです。
私も敬和の学生であった頃、夏休みの課題として礼拝に出席したこと、それが私の人生を変えるターニングポイントとなったからです。
ところで当時は、夏休みの宿題として、礼拝出席以外にもうひとつ、面倒な課題がありました。
「マタイの福音書」のなかに「山上の説教」というイエス様の長い説教があり、それをノートに書き写すというものでした。
この聖書のページ数にして5,6ページありますので、結構な分量です。
よく趣味として、般若心経を書き写すという方がいて、心が落ち着きますという感想を読んだことがありますが、
こっちは趣味ではなくていやいややってますので、心が落ち着くどころじゃない。
むしろ書いているうちに腹が立ってきて、キリスト教がなければこんな宿題出ないのにと思いました。
しかし書き終わってみると、心の中に聖書の言葉がいくつか残るものです。
山上の説教は、こういう言葉で始まっていました。「心の貧しいものは幸いである。天の御国はその人のものだからである」。
意味はよくわからないが、何か心をひきつけるこの言葉は、それからも時々思い出すことがありました。
1.
さて、今日の聖書箇所は、こういう言葉で始まります。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」。
似ていますね。マタイの福音書では「山上の説教」と呼ぶこれらの説教は、ルカの福音書では「平地の説教」と呼ばれます。
マタイでは「山に登って語られた」とあるのに対し、ルカでは「山から下りて語られた」と書いてあるからです。
しかし山上であろうが平地であろうが、私たちにとっては大きな問題ではありません。イエス様が伝えようとしていることはひとつです。
己の外側に取り巻く、貧しさ、飢え、涙、迫害、それを私たちが乗り越えていくカギは、私たちの内側を変えることです。
食べるものがない、明日の保証がない、ないないづくしの中で、それでも現状を変えようと私たちは動き回ります。
しかし聖書の別のところにはこういう言葉があります。「静まって、ただ私だけが神であることを知れ」。
貧しい中にあっても、幸いであるとイエスは言われます。迫害の中にあっても、幸いである、とも言われます。
私たちは、人生の見方を裏返す必要があるのです。
静まって、まず自分と神様の関係を見つめ、そこから変えていくとき、人生そのものが幸いという光を放っていくのです。
しかしイエス様が貧しさや飢え、迫害、涙それ自体を幸いだとは言っておられません。
もしそれらが幸いだとしたら、イエス様が人々にパンを与え、病をいやすということをされることはなかったでしょう。
人が貧しさや迫害といった困難の中で涙を流している現実に、神は心を痛めずにはいられません。
しかし神がもっと心を痛められるのは、私たちが貧しさや迫害に押しつぶされて、それらが神ご自身よりも大きな関心事になってしまうときです。
神は私たちに願っておられます。困難を通して私たちが神様との関係を見つめ直し、変えていくことを。
2.
私たちがイエス様を信じるきっかけは人によって違いますが、共通しているのは困難の中で神様に向き合う道を選んだということです。
ある方は、この社会に生きづらさを感じる中で、三浦綾子さんの本に出会い、教会へ導かれました。
またある方は、家族の問題に苦しんでいる中で、クリスチャンに誘われて、教会に来るようになりました。
クリスチャンホームに育った子どもたちであっても、教会生活に葛藤を抱いて、そこで信仰のチャレンジを受けたということがあるはずです。
そして神を信じたら、それまで抱えていた困難がきれいさっぱりなくなるというわけではありません。
ある人は依然としてその困難と向き合わなければならないし、また他の人は新たな困難を背負うということもあります。
しかしイエスを信じるとは、自分の生活を取り巻いている壁がなくなることではありません。
むしろ自分の心の中にあった、神との壁が取り払われることです。
私たちは、困難に囲まれたとき、自分の力を頼り、周りに責任を転嫁する過ちをよくしてしまいます。
しかしそのような生き方を続けている限り、困難が一つ二つ消え去っても、心に幸いは訪れません。
私たちが困難に囲まれたとき、もうひとつ、こんなことが起こります。
困難の中で八方ふさがりになったとき、その時に初めて私たちは本気で神様にしがみつくようになるということです。
「苦しいときの神頼み」という言葉がありますが、たとえ一過性であれ、そのとき、人は確かに神に頼ります。
神に頼るとは、何が周りで起きていても、神が私を守ってくださると信じることです。
貧しさが取り去られなくても、感謝する。飢えが解決されなくても、感謝する。涙の中にあっても感謝し、迫害されていても感謝する。
そんなバカなと思う生き方へと私たちを乗り越えさせる力は、イエス様への愛です。
イエス様が貧しさをなめられたように、私も貧しさを甘んじて受ける。イエス様が涙を流されたように、私も友のために涙を流す。
イエス様が迫害を受けたように、私もイエスの仲間だというので迫害を受けるものになったことを喜ぶ。
困難を通して、私たちの心は変えられていきます。
困難そのものは決して喜ばしいものではありませんが、困難の中で私たちは神の子どもにふさわしい者へと変えられていきます。
それが私たちにとってほんとうの幸いです。
結.
私たちは、幸いな人生へと招かれています。決して哀れな人生へではありません。では、哀れな人生とは何でしょうか。
人々が考える哀れな人生は、皮肉にもイエス様が言う「幸い」な人生です。
貧しく、飢え渇き、涙をこぼし、迫害を受け、・・・しかしそれはむしろ「幸い」なのです。
なぜなら、イエス様と同じ苦しみを経験している者たちには、やがて来るべき神の国において確かな報いが約束されているからです。
むしろ哀れなのは、この世で報いを受け取ってしまっている人たちだ、とイエス様は言われます。
今富んでおり、今食べ飽きており、今笑っており、今人々にほめられている者。
もし私たちがそのようなものを幸せだと考えて求めていくならば、私たちはこの世で一番哀れな者です。
私たちは自分の生活を振り返りましょう。自分の心の中を見つめましょう。
私たちはだれもが、やがてこの地上を去らなければならない時が来ます。
その時に私たちの人生の幸いを決めるのは、預金額でしょうか、会堂の大きさでしょうか、悲しんでくれる人たちの人数でしょうか。
むしろどれだけ貧しさの中でも感謝できたかです。飢えの中でも失望しなかったかです。
涙と迫害をキリストの苦しみにあずかるものとして受け止めることができたかです。
ひとり一人が、本当に幸いな人生を思いながら、今週の与えられた一日一日を歩んでいきましょう。