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2015.9.20「健全な自尊心」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』6章39-45節
 39 イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
40 弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
41 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
42 自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。
43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」

1.
 イエス様は今日の箇所を通して、自分自身を見つめなさいと語りかけておられます。
そして盲人、弟子、目医者のまねごとをしている偽善者たち、さらに木の実、倉から取り出される品々。
しかしこれらの数々のたとえを通して伝えようとしている姿は、ただひとつ、それは自分自身の姿です。
人に何かを教えようとする前に、まずあなたを知れ、というメッセージです。
盲人とは、自分の姿が見えていない者です。自分自身が杖をつかずには歩けないのに、おこがましくもほかの盲人を導こうとする者。
それは、自分が何者かわかっていないくせに、まるですべてを悟ったかのように、人々に正しい道を導こうとする者です。
まるで私たち説教者へのあてつけのようですが、決して私たち職業として人々に真理を語るものだけを指してはいません。
すべての神の子どもたちに語られた言葉として受け止めたいものです。

 「キリスト教ジョーク集」という本に入っていた話です。ある教会に新しい牧師が赴任してきました。
新しい町に慣れようと散歩に出かけたら、初日早々、迷子になってしまった。
困っていると、親切な人が助けてくれて、教会までの帰り道を教えてくれたばかりか、教会の前までついてきてくれた。
新任牧師はお礼を言いながら、お返しに救いへの道を教えましょうと言って、個人伝道を始めようとした。
するとその人は(手を出して)「いや、結構です。教会への行き方さえもわからないあなたに、天国への行き方を教えられるとは思えません」。

 私たちは知らなければなりません。自分が、じつは何も見えない、盲人に過ぎないのだということ。
「私は知っている」と言った時点で、じつは何も知らないのだということを露呈しています。
弟子のたとえもまた自らの分を越えない、ということです。よく訓練された弟子は、師くらいにはなれるとありますが、師を越えることはありません。
茶道をたしなむ者で知らない者はいない、千利休の「利休」という字は、使い古して先が丸くなった錐から来たそうです。
本当に道を極めた者は、自らを誇るということはありません。梁が目に突き刺さりながら、兄弟の目の中にある塵を取らせてください。
イエス様が身振り手振りを交えながら語られたとき、おそらく聴衆の中にはくすくすと笑いが起きたことでしょう。
彼らは、当時いばっていたパリサイ人や律法学者を想像して笑ったかもしれません。
しかしじつのところ、イエス様の言葉は、そこで聞いていたひとり一人の姿を語っているのです。

2.
 「あなた自身を知れ」という、イエス様の投げかけは、高慢、高ぶりへの警告と言い換えることができます。
私たちは、高慢という言葉を聞くと、プライドが高い、という風に考えます。
しかしここで気をつけたいのは、プライドそのものは決して悪いものではないということです。プライドは、自尊心と訳すこともできます。
そして、高慢とは、自尊心が高いゆえに起こるのではなく、じつは自尊心が低いゆえに起こるのです。
自分自身を、神が作られた尊い存在であるということがわからないがゆえに、貶められている自尊心を無理な方法で奮い立たせようとする。
そこにゆがみが起こり、ゆがみは自分を傷つけ、家庭を、そして社会を傷つけていく。
ありのままの自分を受け入れることができないから、自分は価値がある、必要な存在だと無理に信じ込ませ、人は高ぶりに陥ります。

 神学生時代に通っていた教会に、奏楽を一手に引き受けていた姉妹がおられました。
徹夜勤務もあるような仕事の中で、日曜日の礼拝を守り、奏楽の奉仕をされていました。
でも見るからに疲れ切っていたし、何よりも喜んで弾いているという感じではありませんでした。
その人と話をしたことがあります。笑顔を浮かべ、「神様が私を必要としておられるから、私は自分の賜物を使っていただきます」と言われました。
しかし聖書66巻の中に、神が私たちを必要としておられるという言葉は一切ありません。
私たち被造物は、神を必要としています。しかしすべての創造者である神は、被造物の助けを必要とされるほど、力なき方ではありません。
聖書に書いてあるのは、「神は私たちを必要としている」ではなく、「神は私たちを求めておられる」ということです。
私は神に必要とされている、私は教会に必要とされている、だから私ががんばらなければ、・・・それは正しい価値観ではありません。
それは、低いままの自画像を、必要とされている自分という無理矢理書き換えられた自画像にすり替えているだけです。
本当に疲れ果てて何もできなくなってしまったら、必要に答えられない自分として自分を責めてしまうことになるでしょう。
健全な自尊心に基づく信仰は、だれにも必要とされていなくても、ここに私がいる、あなたがいる、そのことに満足できる信仰です。
神はあなたが必要だから愛しているのではなく、必要、不必要というようなものを越えて、ただあなたをわが子として求めておられます。
ただあなたを無償の愛をもって愛するがゆえに、御子イエス・キリストを十字架にかけてまで、私たちを神の子どもとしてくださったのです。

3.
 私たちは今、自らの心を神様に探っていただきましょう。
どれほど熱心で、有能であっても、歪められた自尊心の中で動き回っているならば、どれだけ外側を繕っていても、悪い実しか結びません。
「悪い実を結ぶ」とは、不幸が起こるとかいう意味ではなく、自分の真の姿に気づかないまま、喜びを失っている状態です。
しかしもし私たちが健全な自尊心を持ち、歪んだ背伸びをやめて、自分を見つめ直すならば、私たちは何をしても良い実を結びます。
詩篇の第1編には、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人は、何をしても栄える」という言葉があります。
「何をしても栄える」もまた、トラブルや不幸が起こらないという意味ではありません。
そのような事柄さえも、実を結ぶための素材として用いられていく人生です。
人はあなたを働きによって評価します。あなた自身も、どれだけ働いたかという結果で評価しがちです。
しかし神はそうではありません。ただ私をあわれみ、罪の結果である永遠の滅びから助け出すために、イエス様を与えてくださいました。
この方が私のために死んでくださったこと。それが私たちの自尊心の礎であり、それ以外はありません。
ただ十字架だけを誇りとしていくことができますように。
posted by 近 at 17:53 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
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