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聖書箇所 『ルカの福音書』6章46-49節
46 「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
1.
先日、台風18号の影響で鬼怒川が氾濫したとき、一軒だけ流されなかった「白い家」が、テレビのニュースで取り上げられました。
この家のご主人の話によれば、普通のコンクリートの土台に加えて、18本のくいが地中に打ち込まれているそうです。
業者からは「地震の時には外に逃げないで、家の中にいたほうが安全です」とお墨付きをもらっていた、とのことでした。
ただ、良いことばかりではなくて、建築費は同じ建坪の普通の住宅の倍以上かかるそうです。
茶色い濁流に家々がおもちゃのように流されていくなか、一軒だけ耐えている白い家の映像を見ながら、今日の聖書箇所を思い出しました。イエス様は言われます。「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう」。
イスラエルは、一年が乾期と雨期に分かれています。
乾期にはほとんど雨が降りませんが、雨期、とくに12月、1月には月間100mm以上の大雨がざらに降るそうです。
おまけにイスラエルの地盤は日本と違って岩石が主ですから、水を吸収しません。雨水は地下にたまることなく、洪水となって襲いかかります。
洪水で家を失わないためには、とにかく家の土台を深く深く堀るしかありません。
もちろんそのために、時間も労力も、そしてお金もかかるでしょう。
しかしイスラエルでは、もしかしたら水害が起こるかもしれない、ではないのです。雨期になれば、洪水は確実にやってきます。
確実にやってくる災害のために、投資を惜しむ者は愚かです。
「土台なしで地面に家を建てた人」は、すぐに来る水害の恐ろしさを知っていながら、目先の必要にとらわれて、生活武装を怠った人です。
神のことばは寄席ではありません。心を楽しませるだけではなくて、聞いて行動に移さなければ、意味がないのです。
2.
私たちの人生は、常に順風満帆の旅というわけにはいきません。時として、雷雨や洪水、日照りに襲われることがあります。
自然災害ならば、頑丈な家を建て、その中に隠れるということもできるでしょう。
しかしイエス様が語られているのは自然災害ではなく、私たちの生活に襲いかかってくる、見えない災害です。
人生に対してのむなしさ。あるいは逆に、楽しく過ごしている中で、それがいつか突然、途中で終わりを迎えることへの恐れ。
家族との関わりの中で生まれてくる対立。あるいは家族との関わりをおろそかにしてきたゆえの、突然のトラブル。
目に見えない災害に対しては、目に見えないもので備えるしかありません。今、何を備えなければならないのか。
イエス様は、その答えをはっきりと言っています。「わたしのことばを聞き、それを行うこと」である、と。
信仰は聞くことから始まります。そして信仰だけが、私たちの人生に突然割り込んでくる、見えない恐怖への唯一の備えとなります。
お金や人生経験では決して太刀打ちできない、私の人生そのものへの挑戦に対しても、決してたじろぐことがありません。
イエス様の言葉を聞き、それを行うものには、決して奪い取られることのない平安が与えられるのです。
しかし、イエス様の言葉に注意しましょう。「聞く」と「行う」ことの大切さが言われていますが、この二つは同じ重さではありません。
「聞く」ことよりも、「行う」ことのほうが重いのだ、と言われているのです。
「わたしに主よ、主よ」と呼びかけ、言葉を聞くために集まっているにもかかわらず、なぜわたしの言葉を行おうとしないのか、と言われるのです。
聞くことが無駄だということではありません。しかし「聞いただけ」で何も行わないのなら、それは土台なしで建てた家に等しいと言われるのです。
神のことばを聞くことにはどんなに熱心であっても、みことばを行おうとしないならば、決して人生の洪水に太刀打ちすることはできません。
ではみことばを行う、とはどういうことでしょうか。「愛せ」と聞いたら愛し、「許せ」と聞いたら許すことでしょうか。
確かにそれもあるでしょう。しかし、それではいつまでも幼い信仰です。私は今日、大人がなすべき信仰を教えましょう。
3.
「三割の法則」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。何かを語るとき、人は内容の三割しか人に伝えることはできません。
そればかりか、聞いている者は、耳に入ったことの三割しか覚えていないのです。
つまり、私が30分の説教原稿を用意しても、表情、目の動き、言葉の間、論理の組み立て、などなどで、30分のうちの三割、10分ぶんくらいの内容しか、みなさんには伝わりません。
さらにその10分ぶんのうち、そのうちの三割ですので、3分くらいしかみなさんの中には残りません。
もちろん、それでも聖霊様が働いてくださるときに、三分ぶんの言葉の中から救いの奇跡を起こしてくださることでしょう。
ただ、結局のところ、語ろうと準備したことの一割しか伝わらないのです。「一割の法則」と名付けた方がよいかもしれません。
ところが、この「一割」を5割とか7割へと、飛躍的に高める方法があります。聞く人が、他の人にそれを教えるのです。
つまり、話を聞くときに、ただ漫然と聞くのではなく、聞いたことを他の人にどうやって伝えることができるだろうかと考えながら聞く。
そして実際に、ほかの人に伝えることをやってみる。
普通に聞いたことを話したのではまず伝わりませんから、自分なりに工夫して、かみ砕いて、人に伝えるための準備をする。
じつはイエス様が「聞いたことを行いなさい」と言われているのは、あなたが聞いたことを人々に教えなさいという意味に他なりません。
教えるということは、行うことです。人が語った言葉のとおりに生きる、ということなしには人を教えることはできません。
そして行うことは、教えることです。親は、子どもの前で自分がやってみて、初めてこどもをしつけることができます。
人に見せるために行うことは、偽善であり、自己満足です。しかし人を教えるために行うことは、教育であり、訓練です。
みことばを聞くだけではなく、行いましょう。直接開いた聖書の言葉であれ、礼拝やその他の集会で聞いたメッセージであれ、
それを人々に自分も教えるつもりで受け取り、そして実際に教えてみたときに、神のことばはしっかりと実を結びます。
どんなにみことばを聞いたとしても、ただ聞くだけならば、必要な土台の深さの一割にしか及びません。
しかし聞いたことを人々に教えることをめざしましょう。そのとき、私たちの人生の土台は自らも生かし、他の人々をも生かすのです。
ここでも私は、あの白い家の映像を思い出します。濁流の中で流されてきた他の家が、ゆっくりと白い家にひっかかり、そこで止まりました。
私たちがみことばを与えられるのは、他者を生かすためです。そのためにまず自分がみことばを通して生かされるのです。
聞いたみことばを人々に教えていくことを、自分の生活の目標にしようではありませんか。それが行うということなのですから。