私は、英文の注解書や教会用具などをアメリカのキリスト教書店からネットで購入することがあります。
先週は、そのサイトから「BLACK FRIDAY Bargain」という見出しのメールが頻繁に届きました。
ブラック・マンデー(世界恐慌の引き金となったウォール街の大暴落)ならぬ「ブラック・フライデー・バーゲン」?
てっきり株式が暴落して閉店大売り出しセールを行うのかと思いました。
アメリカでは感謝祭(11月第四木曜日)の翌金曜日は、全米あげての大売り出しセールを行うそうです。
ウィキによると、最初に行ったフィラデルフィアで黒山の人だかりができたので地元警察がそう名付けたとか。
垂涎の注解全集も何割引かで売られていましたが、当教会は牧師謝儀を渡されるのが第一主日なので、手が届きません。トホホ
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』1章5-25節
5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。
8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」21 人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。22 やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。23 やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。
24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
1.
明後日から師走に入ります。
どうして世の中が最も忙しい時期と、教会が最も忙しい時期が重なってしまっているのか、と思うことがあります。
明日からは師走、今日からはアドベント、
アドベントは「待ち望む」という意味がありますが、とてもゆっくりと落ち着く暇がない中で、それぞれはここにすわっているのかもしれません。
しかし聖書を読みますと、神が招かれる人とは、自由な時間をたっぷりと持っている人ではなく、むしろ忙しく仕事に向かっている人のようです。
モーセがシナイ山で神に呼ばれたとき、彼は羊飼いとして羊を追っていた最中でした。
またギデオンの前に神が現れたのも、彼が酒ぶねに隠れながら小麦を打っていた、ちょうどその時でした。
福音書を見ると、ペテロやヨハネがイエス様の弟子として召されたのも、彼らが網を修理していた時であった、とあります。
そして今日、登場するザカリヤもまた、神殿の聖所で香をたくという、祭司の務めを果たしている中で、御使いに出会いました。
私たちは忙しい忙しいと言いつつも、仕事がないよりは良いよねということがあります。
忙しさというのは、それだけ神にも人にも必要とされている証拠と考える傾向にあります。
しかし私たちが日々の働きに費やしている時間が、それだけ神に用いられている証しだとすれば、
それと同じくらい、私たちは神の前に静まる時間を必要としているのではないでしょうか。
「忙しくて祈る暇もない」「忙しくて礼拝を守る時間もない」という言い訳の罠にはまることがないように気をつけていきたいと願います。
祈りや礼拝以上に、私たちのいのちを支えるのに必要な事柄など、私たちにはないのです。
神はあなたの手を離し、祈るために手を組み直せと招いておられます。
仕事の不安や目標が心の真ん中を支配している状態を整理し、イエス様を心の真ん中に据えるように命じておられます。
今、私たちの心は、何によって支配されているでしょうか。
仕事の予定や、不安で覆われているでしょうか。だとしたら、キリストを待ち望む期待へと変えられていくことを願いましょう。
2.
さて、目を私たちの心から、祭司ザカリヤの心へと向けていくところから始めましょう。
イスラエルの祭司にとって、神殿で香をたくということは、決して当たり前のことではありませんでした。
「くじをひき」という言葉が示しているように、それは人の願いに応じて与えられる仕事ではなく、神の恵みの中で与えられるものでした。
その尊い仕事の最中に、ザカリヤの前に御使いが現れたのです。旧約聖書では、神を見た者は死ななければならないと言われています。
ザカリヤは、いのちが取り去られる恐怖をおぼえたでしょう。
そして次に、自分が香を焚いている手順に間違いがなかったか、つまり仕事上のミスがなかったか、考えたかもしれません。
しかしそれらは、次にザカリヤがしてしまった失敗に比べたら、何でもないことでした。
18節、「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」。
彼は、神さまが約束された預言者があなたたち夫婦から生まれるという約束に対して、目に見える証拠を求めてしまったのです。
神さまの約束に対して、目に見える証拠を求めるというのは、一概に罪とは言えません。
聖書の中には、ザカリヤのような言葉を神に発している人は、他にもいます。
そして神は彼らをさばくことなく、その願いを聞き届けてくださっている例もあります。
しかしザカリヤの場合、そのさばきは、約束の子が生まれるまで、舌がもつれて何も話せなくなるというものでした。
なぜ彼だけがこのような罰を受けなければならなかったのでしょうか。
それは、彼が祭司だからです。祭司によって、神に香をささげることよりも大切な仕事は、神のことばを用いて人々を祝福することです。
ザカリヤが神のことばに、目に見える証拠を求めたというのは、もっとも神の言葉の力を知っている者が、それを軽んじたということに他なりません。
そして神が今日の聖書から語ろうとしているのは、ではザカリヤではなく、私たち自身はどうなのか、ということです。
クリスチャンである私たちが、イエス・キリストによって救われたのに、その救いの意味をそれ以上考えようとしないとしたら。
神のことばによって人生が変えられたと言いながらも、結局はこの世の人々と同じような幸福感に満足しているとしたら。
もし私たちがそのような生き方にとどまっているならば、いったい誰が救われるでしょうか。
3.
キリスト教は、ことばの宗教です。なんとなく幸せとか、目をみれば違いがわかるといった曖昧な宗教ではありません。
聖書66巻はすべて神のことばであり、信仰と生活の唯一絶対の規範であると告白する宗教です。
私たちをことばによって神の子どもとして生まれ変わりました。
しかし私は、あなたがたに日曜日だけ聖書を取り出すような信者でいてほしくはありません。あなたはいまやキリストの祭司だからです。
二本の足で立ち上がり、みことばを自ら求め、自ら学び、自ら語ることのできる者になることを願います。
それが、私たちが祭司ザカリヤの失敗から今日語られていることなのです。
多くのクリスチャンが、人々にイエスを語ることを苦痛と感じていることは間違いありません。
しかし語らなければ何も変わりません。語らなければ、教会は変わらない。人々も変わらない。自分も変わらない。
ザカリヤが神殿の外に出てきて、人々を祝福するために両手を挙げた瞬間、口から言葉が出てこなかったときの気持ちを考えます。
無力感、恥辱、失望、それはまさに言葉には言い表せないほどのものだっただろうと思います。
神のことばを通して、人々の不安や痛みを取り除いていく祭司の務めを果たすことのできない悲しみ!
しかし神がザカリヤに沈黙というさばきを与えたのは、彼の信仰をもう一度作り直すためでした。
今、私たちは語ることができます。叫ぶことができます。イエス・キリストだけがわたしの神です、と。
このクリスマスこそ、わたしの神であるイエスが地上に来てくださった日。
十字架で私たちの罪を贖い、命を与えるためにイエスが来てくださった日。
どうか、まわりの人々にイエス様の恵みを語ってください。あなたが語っていかなければ、あなたの周りの誰の人生も変わることはないのです。
私たちクリスチャンが語らなければ、誰も本物のクリスマスを知ることはできないのです。
どうか今日、私たちがことばに生きる者であることをこの心に刻みつけることができるように。