2011〜12年まで二年間、当教会で神学生として奉仕くださったT姉が教団の補教師試験に合格したという知らせを受け取りました。
ここに至るまで決して平坦な道のりではなかったと聞いています。私たちはただ背後で祈ることしかできませんでした。
しかし「信じたとおりになる」(マタイ8:13)というまっすぐな信仰を、T姉は堅持して歩んでこられました。
dogmaticな人々から批判を受けたことも、いずれ牧会の現場で起こることに対する訓練となりましょう。
神が私たち牧者に求めておられるのは謙遜です。どうかこれからの歩みが導かれるように。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』1章39-56節
39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。
序.
アドベント第三週に入りました。
今日も、イエス様の誕生へと向かう、聖書の出来事を通して、みことばの励ましをいっしょにいただきたいと願います。
出産の経験をしたことがないので、間違っていたら申し訳ありませんが、妊娠して5ヶ月目くらいからを安定期と呼ぶそうです。
妊婦さんのお腹の中で、胎盤が完成し、つわりがこの頃から落ち着いてくる、ということ。
そう考えてみると、まさに神さまのご計画は、人間に対する配慮で満ちていると思わされます。
というのは、マリヤに御使いが現れたのは、エリサベツがみごもってからちょうど六ヶ月目の出来事でした。
それはちょうどこの安定期にあたります。
マリヤがエリサベツの家を訪れて、そこでお互いに神への感謝を分かち合うことのできる、もっともよい時を神は備えてくださいました。
初めての出産を経験するお母さんたちは、お腹の中で子どもが動く、いわゆる胎動を感じるときに、
「ああ、赤ちゃんが自分の中に生きているんだなあ」ということを実感するそうです。
この胎動を経験するのが、やはり5ヶ月か6ヶ月目の安定期。
エリサベツの中の赤ちゃん、後のバプテスマのヨハネが、マリヤの挨拶を聞いてお腹の中でおどったというのも、
もっともふさわしい時期に神はマリヤに現れ、彼女はエリサベツを訪問したということではないでしょうか。
まさに聖書に書かれているとおり、「神のなさることは時にかなって美しい」、
そして「神を愛する人々のためには、神をすべてを働かせて益としてくださる」とあるとおりです。
1.
ところで、マリヤの住んでいたナザレの町から、ザカリヤの家があったユダの山地までは、直線距離で100キロ以上というところでした。
そして当時において、ここまで長い距離を、若い女性が一人で旅をするというようなことは、きわめて異常なことでした。
「初めてのおつかい」という、子どもに長旅をさせるテレビ番組がありますが、
まだ中学生くらいの年齢であっただろうマリヤにとっても、これは初めての経験であったでしょう。
マリヤはどうしてそこまでして、エリサベツのもとに急いだのでしょうか。
それは、エリサベツの賛美のことばにあるように、「神のことばが必ず実現すると信じ切っていた」からです。
間違えないで頂きたいのですが、マリヤは神のことばが本当に実現するか、確かめに行ったのではありません。
御使いは確かにマリヤに対して、「不妊の女と呼ばれていたあなたの親類エリサベツも、あの年になって男の子を宿している」と言いました。
しかしマリヤは、それが本当かどうかを確かめに行ったのではありません。
確かめるだけであれば、直接行かなくても、いくらでも方法がありました。
しかし彼女は確かめにではなく、確かに起こったと信じ切っていたからこそ、エリサベツのもとに急いだのです。
それぞれに起こった神の恵みを分かち合うために。
エリサベツにはヨハネという子種が、そしてマリヤにはやがて生まれるイエスという約束が、神から与えられました。
高齢となっていたエリサベツ。不妊の女と呼ばれていたエリサベツ。彼女に神の恵みが注がれた、その喜び。
そしてナザレという小さな村の、その中でも最も小さな者であった、処女マリヤ。彼女にも、神の恵みが注がれました。
マリヤは、その恵みを分かち合うために、エリサベツのもとへと向かったのです。
2.
これこそが、私たちが心におぼえるべき、信仰の交わりの醍醐味です。
この世の友だちとも、様々なことを分かち合うことができるでしょう。
本人はクリスチャンでなくても、私たちクリスチャンの証しを熱心に聞いてくれる親友もいるでしょう。
しかしキリスト者同士の交わりは、性別や国籍を超えて、私たちの中に生きておられる聖霊が喜びおどるのを感じる、格別なものです。
それを私たちは自分のものとしているかどうか。それを自分自身の心の中に問いかけてみましょう。
そしてもしそれを感じることができないようであれば、神さまに求めましょう。
神はあらゆるものを、愛する者の求めに従って与えてくださるお方であるからです。
私たちひとり一人が、お互いに、それぞれの中に聖霊が生きておられる、と
神の家族として認め合うならば、そこにはかけがえのない、交わりの喜びがあります。
どんなに小さな喜びでもいい。神さまがあなたにしてくださった恵みを思い起こしましょう。
喜びを分かち合い、声を上げましょう。そのとき、聖霊なる神はあなたの目を開いて、溢れるばかりの祝福に気づかせてくださいます。
エリサベツは大声で叫びました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いなことでしょう」。
神は私の行動を通して、ご自分のみことばを実現させようとしておられると信じること。いや、信じ切ることです。
マリヤとエリサベツは、その信仰を分かち合いました。私たちもそれにならいましょう。
神が私にどれほど大きなことをしてくださったのか、誰かとみことばを分かち合いましょう。
親は子どもと分かち合うことができます。夫は妻と分かち合うことができます。壮年、青年、婦人同士で分かち合うこともできます。
同じ地域に住んでいる者同士で分かち合うこともできます。
みことばに聞き従い、そしてそれを分かち合っていく交わりの中に、本当の祝福があるのです。
結.
マリヤとエリサベツは、年齢ははるかに離れていましたが、どちらも当時の社会の中では低く見られていた女性たちでした。
とくにエリサベツは、祭司の妻でありながら、子どもを産めないまま高齢を迎えていたという現実の中で、偏見の目にさらされて生きていました。
当時の考え方においては、出産は神の祝福であり、不妊はのろいであると信じられていたからです。
しかし彼女たちは、いまお互いに喜びを表し、恵みを分かち合いました。
力ある神が低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満たされると告白しました。
私たち信仰者の交わりは、お互いの心の表面を軽くなぞって終わるような、薄っぺらいものではありません。
私たちは、このクリスマスの機会に一人でも多くの人が教会に来てほしい、と祈っています。
しかし人々に真に必要なものは何でしょうか。幻想的な雰囲気、アットホームな集会、そんなものではありません。
教会が人々に与えることのできるものは、かたちだけ、言葉だけ、雰囲気だけの平安ではなく、本物の生きた交わりです。
暖かく抱きしめられる経験だけではなく、ある時には痛々しいほどに、心がえぐり出される経験さえも分かち合うことのできる関係。
クリスマスは、この生きた交わりへと人々が招かれる時です。
いよいよ来週は、イエス・キリストの降誕を祝う、アドベント第四週を迎えます。
ひとり一人が自分に与えられている関係の中で、友人たちを神との交わりへとお誘いしていこうではありませんか。