今日はクリスマス特別礼拝でした。久しぶりに礼拝に出席できた方、また初めて教会に来られた方もおられました。感謝です。
これを読んでくださっている方々にも、クリスマスの恵みが豊かにありますように。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』1章18-25節
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
1.
突然、一句。「主の恵み われとり囲む ポインセチア」。ある姉妹が、たくさんの生のポインセチアをささげてくださいました。
クリスマスの代名詞にもなっているポインセチアですが、調べてみると面白いことがわかりました。
まずポインセチアという花の名前ですが、これは今から約200年前に、メキシコからこの花を持ち帰ったアメリカ人、ポインセットという人物の名前にちなんでいるそうです。
彼はアメリカからメキシコに派遣された大使でした。きっとこのポインセチアのように、心の美しい政治家であったに違いありません。
「が」、じつはこのポインセット大使、人には言えない裏の顔を持っておりました。
当時のアメリカは、スペインから独立したばかりのメキシコの国を狙っていて、ポインセットは政府を混乱させるために暗躍していたというのです。
ところがその企みはやがてメキシコ政府の知るところとなり、彼はアメリカに強制退去。
しかしその直前、冬の町で真っ赤な花を見つけ、おみやげとしてアメリカに持ち帰りました。これがポインセチアだというのです。
さんざんポインセット大使から迷惑を被ったせいでしょうか、
メキシコ人はこの花をポインセチアではなく、ノーチェ・ブエナ、日本語でいうと聖なる夜と呼ぶようです。
しかしポインセットの名誉のために言うならば、
彼は大使であると同時に医者でもあり、そしてアメリカに帰った後は陸軍長官も務めたほどの人物でした。
メキシコを混乱させるということも、正義と命令のあいだで葛藤をおぼえていたのではないかと思います。
その意味で、マリヤの婚約者であったヨセフの葛藤にも繋がるかもしれません。18節をもう一度お読みします。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。
その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」。
当時のユダヤでは、たとえ婚約期間中であったとしても、姦通は死罪にあたります。
「聖霊によって」とありますが、それは何か証拠があるわけではなく、マリヤの言葉を信じるか、信じないか、にかかっていました。
ヨセフは正しい男でした。しかしそれは、マリヤの言葉を何も疑うことなく信じることができた、ということではありません。
そこには、葛藤がありました。聖霊によって身ごもった、という前代未聞のことを、葛藤もなく信じることができようはずもありません。
彼は悩んだ末、マリヤとの婚約を解消することを決心しました。しかしそのとき、神のことばがヨセフにも現れたのです。
20節、「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」。
2.
「恐れるな」という神のことばは、恐れているからこそ語られます。ヨセフは恐れていました。
マリヤのことを信じている。でも自分は、これからもマリヤを愛し続けることができるだろうか。
しかし神は、私たちの恐れをご存じです。葛藤をすべて知っておられます。そして最もふさわしい時に、神のことばが現れました。
さらに神は、ヨセフにこうも命じました。「生まれる男の子をイエスと名付けなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」。
イエスというギリシャ語名、それはヘブル語ではヨシュア、「主は救い」という意味です。
そして今日私たちは、「正しい人」であったヨセフに、まっさきに「罪から救ってくださる」イエスの名前が語られたことを心におぼえたいのです。
あなたは言うでしょう。私は罪人ではない。人に迷惑をかけないように生きてきた。ほかの人にはどうあれ、私には罪からの救いなど必要ない、と。
しかし私たちの「正しさ」というのは、自分で考えているほど確かなものでしょうか。
私たちは、幼い頃から命を大切にするということを教わって生きてきました。それは正しいことでしょう。
しかしいざ国と国の戦いが始まってしまえば、正義はいともたやすく、すり替わります。
国を守るために、相手の国の人の命を奪うことが正義になります。
これは、実際に人類が何千年にもわたって経験してきたし、今も起きていることです。
私たちの正義は、時代によって変わってしまうような、不確かなものでしかありません。
正義を光にたとえるならば、人間の正義はオイルランプの光です。
薄暗い闇を照らすことはできますが、太陽の光にさらされるとき、光そのものが消えてしまいます。
人間の正義は、乱れた社会を照らす力はあっても、神の絶対的な正義の前には、その光さえ薄暗いものでしかないのです。
ヨセフは正しい人でした。しかしにもかかわらず、罪からの救いを真っ先に必要としていました。
聖書の中に、こういう言葉があります。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と。
私たちがどれだけ自分の正しさを主張したとしても、生まれながら罪を背負っている私たちは、決して神を喜ばせることはできません。
神の前に、こんな良いことをしました、と主張したとしても、私たちの心の中にうごめいている罪は、すべてを台無しにしているのです。
それに気づかなければ、待っているのは永遠の滅びしかありません。
助かる方法はただひとつ、救いをいただく道はただひとつです。
自分の罪を認め、イエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架についてくださったことを受け入れることです。
3.
ヨセフは、自分が救いを必要としているひとりであることを認めました。
眠りからさめると、すぐにその妻マリヤを迎え入れ、子どもの名をイエスとつけた、とあります。
彼は、信じました。自分の妻の胎から生まれ出る者が救い主であるという約束を。
すべての人を救うことのできるお方は、二千年前にベツレヘムで生まれました。
しかしこの方は、その前にまずヨセフの心に生まれる必要があったのです。そしてヨセフは、イエス・キリストをその心に生み落としました。
私たちがイエス・キリストを信じるということ、それは私たちの心の中に、イエス・キリストを生み落とすということです。
この方が私を罪から救ってくださる。そう心にかたく信じ、心の真ん中にイエスをお迎えするということです。
中世の詩人アンゲリア・シレジウスはこう言いました。
「キリストがベツレヘムに千回生まれようとも、あなたの心に生まれなければ、あなたは永遠に失われたままだ」。
キリストを心に生み落とした者は、こう叫ぶことができます。「インマヌエル、神は私とともにいてくださる」と。
どんなつらい出来事も、思い出したくない経験も、インマヌエル、神、我らとともにいます、の証しとなります。
今年のクリスマス、私たちは一緒にこう叫ぼうではありませんか。インマヌエル、と。
あなたを罪の滅びから救ってくださる方がいます。その方は、どんな時でもあなたを愛し、あなたを決して捨てない。
そしてその方こそ、二千年前のクリスマスに、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストなのです。
この方を心に受け入れるために、一緒にお祈りをささげましょう。