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2016.1.10「きょう、信じよう」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』13章13-41節
 13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。14 しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。15 律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」16 そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。
 「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。17 この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。18 そして約四十年間、荒野で彼らを耐え忍ばれました。19 それからカナンの地で、七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約四百五十年間のことです。20 その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。21 それから彼らが王をほしがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。22 それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』23 神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。24 この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。25 ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』
 26 兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。27 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。28 そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。29 こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。30 しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。31 イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。32 私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。33 神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。34 神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。35 ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』36 ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。37 しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。
 38 ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。40 ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。41 『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」

1.
 今日の聖書箇所は大変長くて恐縮ですが、どうしても越えなければならない山でもあります。
これはパウロが、使徒の働きの中で初めて語った説教です。
しかし同じように長い説教が残っているステパノや、ペテロの説教に比べて、何か新しいことが含まれているわけではありません。
パウロが語っていることは当時の教会の中でしっかりと告白されていた信仰そのものです。
 もし私たちが自分たちの信仰をしっかりと守っていきたいと思うならば、この、目の前にある山を越えなければなりません。
迂回して楽な道を探してはいけません。つまりどういうことかというと、このパウロの説教の中に、福音のすべてが語られているのです。
逆に言えば、現代人である私たちが「うわっ、長い、適当に読み飛ばそう」と思わずにはいられないような、
ここにある一言一言がすべて福音を伝えるためには欠けてはならないことなのだということです。
 今日のパウロの説教は、みっつの部分に分けられます。最初に語られるのは、ユダヤ人の歴史です。
二番目に、そのユダヤ人からイエス・キリストが救い主としておいでになられたことが語られます。
そして最後の三番目に、このイエス・キリストが与えてくださる救いが、すべての罪の問題を解決する、ということが言われます。
この三つの部分が、決してとばしてはならない、大切な福音の要素です。

2.
 私たちにとっては、ユダヤ人の歴史などどうでもいい、と思うかもしれません。
しかしユダヤ人の歴史は、私たちすべての人間の歴史と無関係ではありません。
彼らの歴史は、人間は努力では救われないのだということを教えているのです。
ユダヤ人は、現代の世界政治、経済にも大きな影響力を与えているほどの、すぐれた民族です。
しかし彼らでさえ、神の命令に従い尽くすことはできませんでした。私たちが努力で救われたいと思っても、決してそれはできないことです。
私たちが生まれながらに罪人であり、自分の力では罪を抑えることさえもできないことを、聖書が語るユダヤ人の歴史が教えています。
ではどうすればよいのか。そこでパウロの語る福音は、第二段階、そのユダヤ人からイエス様が生まれてくださったのだというところへと進みます。
 第二段階がどこから始まるかは、パウロがもう一度聴衆に親しい呼びかけをしていますので、すぐにわかるでしょう。26節です。
「兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神をおそれかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです」。
パウロは、イエス様のなさったことを、ふたつにしぼって語っています。ひとつは、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださったこと。
28節にはこう書かれています。「死罪にあたる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです」。
しかしすべては神のご計画でした。私たちは、自分の努力では救われることができません。ではどうすれば救われるのか。
私たちの罪のさばきを誰かが引き受けてくださらなければなりませんでした。それがイエス様です。
そしてイエス様は墓の中からよみがえられました。
よみがえりとは、イエス様におっかぶせた私たちの罪が、すべてイエス様が解決してくださったのだという証明です。
解決されていないのならば、イエス様もまた罪の力により死んだままだったことでしょう。
しかしイエス様は確かによみがえられました。そして、いつまでも私たちの中に、私たちと共に、生きてくださるお方です。
人間の努力では決して成し遂げることのできない、罪からの解放を、このイエス様がすべて成し遂げてくださるのです。

3.
 しかしたとえここまでの話が事実だとしても、これで終わったら、「へえ、それで?」で終わってしまいます。
パウロが最後の段落で言っていることを、私たちは自分への呼びかけとして受け止めなければなりません。
最後の段落は38節の呼びかけから始まります。
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください」。
福音を必要としているのは、どこか遠くの人ではありません。「あなたがた」とパウロは呼びかけます。
あなたが、自分の問題として、罪の問題と、ここから解放されたいという願いを持たなければなりません。
それがなければ、イエスが何度十字架にかかろうが、何度よみがえってくださろうが、あなたは決して救われないのです。
人間の努力では、決して私たちは罪の力から解放されることはありません。
この地上の生活では、罪に目をとめずにいきていけたとしても、やがてすべての人が神さまの前に立たなければならない時がやってきます。
仏教でも、神道でも、キリスト教でも、どんな宗教でも、死んだ後のさばきを教えているではありませんか。
そのときに私たちを守ってくれるのはだれでしょうか。私たちが人生でどれだけよいことをしたか、でしょうか。
しかし今まで何度も語ってきたとおり、人は生まれながらに罪人なのです。
私たちが80年の人生でどれだけの良いことを積み重ねたとしても、それらは背負ってきた罪の重さを帳消しにする力はありません。
しかしきょう、あなたが自分の罪をすべて悔い改めて、イエスさまだけが私の救い主です、と告白するならば、
イエス様もあなたが神の前に立ったときに、あなたを弁護してくださいます。
 パウロが人々に警告したとおりに、私たちもきょう、心をかたくなにしてはなりません。
あなたは今日の聖書の箇所に込められている福音を聞いて、どちらを選びますか。
心をかたくなにして救いを拒みますか。それとも神を信じて、不安から解放された人生を楽しむか。
そしてこれは、クリスチャンにとっても他人事ではありません。私たちが救われていると言いながら、生き方が変わらないのはなぜでしょう。
はるか前に信じてバプテスマを受けたということに依存しているならば、それは救いではないのです。
救いとは、過去の決断の上にあぐらをかく生き方ではなく、今日の決断のうえに働く力です。
きょう、私たちは今一度、イエスの福音が私を変えるのだ、ということを信じましょう。信じた者には神の恵みが現れるのです。
きょう、福音に答えることが大切です。決断のために、ともに祈りましょう。
posted by 近 at 18:21 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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