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2016.1.24「伝えてこそ生きるもの」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
日本全国、記録的な寒波が襲っています。豊栄も例外ではなく、三回の礼拝を雪かきと交互で行うような一日でした。
近くの月極駐車場(屋根なし、消雪パイプなし)に止めてある教会の車も雪で埋もれ、みなさんで掘り出してくださいました。
人の目には迷惑な大雪ですが、これも創造主の御手のわざ。豊富な雪どけ水がなければ、この新潟でおいしいお米はできません。
天地の主に感謝したいものです。大雪の中で、雪かきに労してくださった信徒の方々にも感謝。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章16-18節
 16 あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。
燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
17 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。
18 だから、聞き方に注意しなさい。
というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」

1.
 この地元にある福島潟公園では、毎年9月の秋分の日に「雁迎灯(かんげいび)」というイベントを行っています。
まるでナスカの地上絵のように、ろうそくを一本一本点して、大きなオオヒシクイの絵を描くというものです。
このカンゲイビ、600人ものボランティアが朝から夕方までかかって、12000本のろうそくを福島潟に並べるという大仕事だそうです。
さしずめ光のドミノと言ってもよいのではないでしょうか。
一本のろうそくから隣のろうそくへ、光が光を生み出し、大きな渡り鳥の絵を描きます。

 光が光を生み出していく、このイベントを通して、私は、福音の本質について考えます。
福音、それは人を救いに導く光のことばです。そしてこの光は、隣のろうそくに伝えられてこそ、意味があります。
ここでろうそくと言ったのは、文字通りの意味ではなく、隣の人を指してこう言っています。
福音がもし自分の手の中で終わってしまって、隣の人へとそのともしびが移っていかないとしたらどうでしょうか。
それは私をささやかに輝かせ、私をほんのりと暖めるだけで終わってしまいます。しかしそれでは、福音の力を出し切ったとは言えません。
私たちが福音を信じることによって本当に人生が変わったのであれば、人に伝えずにはいられない、そうではないでしょうか。

 旧約の預言者、エレミヤの涙の告白を、今、私たちは自分自身の告白としておぼえましょう。彼はこう主に訴えています。
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の中で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、
骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20:9)
彼が受け取ったみことばは、イスラエルに対するさばきの言葉でした。
しかし私たちが受け取ったのは、私のような者さえも救われたという恵みの言葉です。
さばきの言葉でさえ内に閉じ込めておくことができないとすれば、恵みの言葉を隠し続けることができないのは、なおさらのことです。

2.
 先週の説教を思い出してください。
種が撒かれた四つの土を例にあげて、イエス様はみことばを真剣に聞く、大切さを教えてくださいました。
みことばを真剣に求め、真剣に聞くことがなければ、私たちは芽を出すことも、根を伸ばすこともできません。
そしてその続きである、今日の聖書箇所は、みことばを真剣に聞く者は、喜びをもってそれを誰かに伝える、と言えるかと思います。
受け取っても、それを誰かに伝えたいという思いが起こらないならば、それは本物ではありません。
星野富弘さんの絵を初めて見たとき、私はその感動を真っ先に自分の母親に伝えました。
人が本当に感動したとき、それはこれを他の人に伝えたいという単純な願いを生み出します。

 少し横道にそれるかもしれませんが、国民的アイドルグループであるSMAPのことが、このところ連日テレビやネットを賑わせていました。
彼らが、レギュラー番組の中で謝罪会見をしたその時間、瞬間視聴率は昨年の紅白歌合戦を超えたそうです。
それだけ、多くの人に愛されているグループなのでしょう。
ライフ・ラインでおなじみの村上宣道先生も、いつかのメッセージで彼らが歌った「世界に一つだけの花」について紹介していました。
私たちは、たったひとつの歌、あるいはその歌の中のたったひとつのフレーズに心揺さぶられたとき、それを誰かに伝えないではいられません。
人が作った歌や映画、絵や文章でさえそうであれば、福音を信じて与えられた救いの感動はなおさらではないでしょうか。
もし私たちが、その感動を失っているとすれば、もう一度真剣にみことばを聞くことで、取り戻すことができます。
みことばをかみしめるなかで、私たちの中には、神さまが与えてくださる無限の喜びが沸き起こります。
その喜びは、私たち自身を必ず変えていきます。そしてそれが心のへりからあふれだし、まわりの人々をも変えていくのです。

3.
 イエス様は、ご自分が語られる、その福音を「あかり」にたとえられました。
それは、まさに福音は自分の中でとどめておくものではなく、人々に伝えずにはいられないものだからです。
そして今日私たちは、とくに次のイエス様のおことばに注目しましょう。16節の最後、「入って来る人々に、その光が見えるためです」。
残念ながら、すべての人が、福音の光を求めているというわけではありません。
すべての人が幸せになりたいと願ってはいても、そのカギが福音ではないかと考える人はごくわずかです。
宗教は、私には必要ありません、と言う人々がなんと多いことでしょう。
まるで評論家のように、宗教に関わると、オウムやISのように、他のものが見えなくなってしまうんだよとしたり顔で言う人もいます。
私たちは、そんな人々の声に悲しみと戸惑いを覚えながら、それでもこの福音の光を、自分の暮らしている家で、町で、職場で、掲げます。
それがすべての人に理解されることはないでしょう。
しかし「入って来る人々」、つまり、真剣に永遠のいのちを求めてこの光に近づこうとする人々は、必ずこの光によって救われるのです。

 「求めなさい、そうすれば与えられます」とも、イエス様は語りました。
光を求めよ、ただ、ただ、光を求めよ。そうすれば、決して消えることのない、いのちのともしびを与えられるのだ、と。
今、私たちの手にはそのともしびが握られています。
それは、どんなことがあっても私たちを見捨てることはない、イエス・キリストご自身の輝きです。
イエス様は、私たちの罪のためにいのちを捨ててくださいました。
神である方が神であることを捨てたばかりか、その命までも捨ててくださったのです。
心の底から、罪から解放されたいと願う者。心の底から、永遠のいのちを得たいと願う者。
心の底から、聖書に答えがあると信じて、みことばを聞く者。彼らはひとりも漏れることなく、必ず救われます。
私たちクリスチャンは、それを経験した者たちではありませんか。今日、自分自身が光へと近づきましょう。
神のことばをもう一度真剣に聞き、かみしめていきましょう。私自身を今日、このみことばによって変えてください、と祈りながら。
私たちはみことばによって変えられます。いや、むしろ、みことばでしか変われない、と言うべきかもしれません。
どんなに頑張っても、自分を変えることも、自分の生活を変えることもできない者が、この福音によって、確かに変えられました。
その喜びを隣人へと伝えていきましょう。
posted by 近 at 19:00 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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