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2016.1.31「苦しんだからこそ」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の当教会の礼拝には、K教会のA先生が(メッセンジャーではなく、会衆として)出席してくださいました。
A先生は昨年10月から、新潟福音放送協力会の委員長を務めています。
新潟の各教会がテレビ伝道番組『ライフ・ライン』を支援していくために、このような形での巡回を始めたとのことでした。
当然ながら、単独牧会であるK教会の礼拝はどうしたのだろうかという疑問をみなさんも抱くと思います。
毎月最終週の主日は信徒による「証し礼拝」を行っているので、このように他教会の礼拝に出席することができるとのことでした。
しかし、さらりと言われましたが、そこには牧師にとっても教会員にとっても、大きな決断と犠牲が必要だったはずです。
新潟県下の福音主義教会が、その犠牲を模範として、放送伝道のために一致協力していきたいと願わされています。
週報はこちらです。

聖書箇所 『コリント人への手紙 第二』1章4-6節
 4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」

1.
 先日、テレビでジュリーこと、歌手の沢田研二さんを見ました。
テロップが出なければ気づかないほどに、大変肉付きもよくなり、いいおじいちゃんになっておられました。
ただジュリーと言って通じるのは、昭和生まれに限られるかもしれません。
私は昭和40年代生まれですが、小学校の頃はジュリーがソロとして活動していた頃の全盛期でした。
その頃の思い出は、尽きることがありません。
ジュリーが「カサブランカダンディ」という曲を歌うときは、ウイスキーの小瓶を片手に登場して、歌う前に口に含み、
ぷわっと霧のように吹き上げるというパフォーマンスがありました。
うちの小学校でも、男子がそれをまねをして、水を口に含ませて女子の前でぷわっとやるのがはやりました。
どうやら全国の小学校でそういう悪い子が頻発したようで、PTAから言われたのでしょうか、ジュリーは途中からこれをやめてしまいました。
要するに、それくらい小学生にも人気があったのです。

 そのジュリーもいまや67歳、大変ふくよかなおじいちゃんになられ、政治的発言も積極的になさっています。
どこかで聞いたのは、昭和のスーパースター、ジュリーは本人としては、無理をして演じていた、ということです。
スマート、ダンディ、ミステリアス、
20代、30代の華々しいイメージは、彼にとっては人生の通過点でしかないのに、人々はあれがジュリーだと言う。
じつはテレビでは、ジュリーの若かった頃の映像を見ることはほとんどありません。それは彼自身がそれを流さないように頼んできたということです。
しかし六十をすぎて、ようやくにして、本当の自分で生きることができるようになった、と。
そしてこうも言います、たとえ昔の自分が作られたイメージであったとしても、それがあり、苦しんだからこそ今の自分がいるのだ、と。
今ジュリーは、本当に歌うことを楽しんでいるように見えます。
苦しむことから逃げださずに、歌い続けているという一点において、やはり彼はスターだと思いました。

2.
 さて、ジュリーの話で三分の一が終わってしまいましたが、彼の半生は、こんなことを教えています。
どんなに自分が振り返りたくない日々も、いつかは振り返りたくなかった日々、として過去形で語るときが来るということ。
つまり、自分でも思い出したくもない経験であっても、それがいつか自分を形作るかけがえのない日々として受け入れることができるということ。
聖書は至る所において、人の体験する苦しみは、決して苦しみのままで終わらないと言っています。
パウロはコリント教会にあてた手紙の中で、こう書いています。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」。

 およそ、この世で人びとが宗教を信じる目的は、この世の苦しみから逃れるためであると言うことができます。
だからこそ、人は病を治してくれるという怪しい教えにもすがりつきもします。
しかし聖書は、苦しみから逃れることを教えません。むしろ苦しみがなければ何も生まれない、と語ります。
ここにいるだろう、クリスチャン約30人、それぞれがどのようにしてイエスを信じるに至ったか、
そのカタログのようなものをもし作ったら、そこには30通りの苦しみのリストが書き連ねられることでしょう。
ある者は人間関係のトラブルを通して神のことばに心を向けさせられて、ここにいる。
別の者は悪習慣の罪悪感の中で、神のことばに心を刺され、悔い改めへと導かれて、ここにいる。
またある者は、心の病との何年にもわたる格闘の末、イエス・キリストへの信仰へとたどり着き、ここにいる。
しかしいずれにしても、その苦しみがなければ、神との出会いはなく、そして苦しんだからこそ、どんな人をも慰めることができる、と。
苦しみは私たちの人生にとって、決してマイナスではありません。
むしろマストアイテム、つまり人生になくてはならない、必要不可欠なものなのです。

3.
 人は苦しみに直面するとき、初めて本当の自分に出会います。
言い換えれば、苦しみに直面しなければ、私たちは本当の自分というものに出会うことはできません。
本当の自分とは何でしょうか。
人は社会の中で、家庭の中で、学校の中で、自分を何重にも覆って生きています。
本音と建て前を使い分けて生きています。しかし苦しみに直面するとき、人は自分を使い分ける余裕を失います。
「なぜ自分ばかりがこんな苦しみに遭うのだ、私がいったい何をしたというのか」。
本当の自分をさらけ出さなければ、人は苦しみの嵐の中を通り抜けることができません。
まさに苦しみの中で私たちは七転八倒、笑顔を浮かべる余裕もなく、もう何に頼れば良いかわからない、
そうなったときに初めて、自分の限界を知ります。そこで恥ずかしさのあまり、死んでしまう者もいる。
しかし一方で神に頼るしかない存在なのだということを自覚することもある。それをみなさんは経験したはずです。

 多くの人は言うでしょう。人は自分が苦しんだことしかわからない。だから、私の苦しみはあなたに、いや、他の誰にだってわかるはずがない。
しかし聖書はこう言うのです。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」。
それはなぜでしょうか。「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」と。
クリスチャンの中には、すべての苦しみを経験したイエスが生きておられます。
そしてこのイエスが、まだこの方を信じていない方に慰めを与えたいと、クリスチャンを通して、この世に向かって手を広げておられるのです。
私たちは多くの苦しみに出会います。
でもそのただ中でイエスに出会い、このイエスが私の罪のために死んでくださったことを信じるときに、
人生の苦しみは無意味ではなく、確かな意味があるということがわかるのです。
ひとり一人が、このイエス・キリストを信じることができるように。

posted by 近 at 16:59 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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