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2016.2.7「愛を行うために聞く」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教では、キリスト教から仏教に転向された方(故人)について、実名をあげて触れています。
つまずきを覚えるクリスチャンの方もいるかもしれませんが、このような人生経験について知ることも、信仰生活にとって益となるはずです。
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週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』8章19-21節
 19 イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。
20 それでイエスに、「あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています」という知らせがあった。
21 ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」

1.
 「仏教からキリスト教へ」という本を書かれた、元お坊さんの牧師先生がおります。
教会のメッセージなどでもよく紹介されることがあるようです。
しかし今日お話しするのはその逆のパターン、「キリスト教から仏教へ」移られた方です。
キリスト教から言えば、「信仰を捨てた」ということになりますので、まず教会で話されることというのはないかと思います。
私も、数年前にお坊さんが書いた本で知りまして、そのときは残念な印象しかなかったのですが、
今回のみことばを味わう中で、この方のことが頭に浮かんで離れなかったのです。

 というのは、今日の聖書箇所は、キリスト教は初めてという方が読むと、つまずきです。
じつの家族が会いに来ても、イエス様は会おうとしませんでした。そして目の前にいる人々を、自分の家族だと呼びかけます。
キリスト教は、家族を大事にしない。そんな偏見を持つ人も実際にいます。しかし決してそうではないのです。
そして先ほど言ったキリスト教から仏教へと移られた方の経験を聞くことは、家族との関係を考えるうえで、無駄にはなりません。
それはこの社会で生きている私たちにとって、遠い話ではなく、今目の前にあるものだからです。

 この方、河村さんという方なのですが、大正生まれのクリスチャンでした。
物心ついたときには教会で過ごし、ご両親も熱心なクリスチャンで、彼女も、この時代で大学まで進んだインテリでもありました。
結婚するときも、「私は幼い頃から仏壇や神棚は一切拝まない、という教えを守ってきました。
この家に嫁いでも、一生クリスチャンとして通させて頂きます」と宣言したそうです。
彼女は、この地方の旧家へ嫁いできたのも神さまのご計画と考えて、毎晩義理の両親の部屋へいって聖書の話をしました。
そんなお嫁さんに対して、義理の両親はにこにこしながら話を聞いてくれたのですが、
一方で彼女のほうは仏壇や神棚に手を合わせることは偶像礼拝だと教えられてきましたから、絶対にそれはしない。
それでも両親は、一切それを責めることなく、夜には決まって部屋に押しかけて聖書を語る彼女の話に、静かに耳を傾ける。
その中で、彼女の中に葛藤が起こってくるのです。
両親は私が話すことすべてに耳を傾けてくれる、しかし私は、この家が守っているものを受け入れようとしない。
そこで彼女は苦しみ、ノイローゼのようになってしまいます。
そしてあるとき、お寺で親鸞のお話を聞き、心が平安に満たされたと、ご自分の手記の中で書いています。

2.
 親鸞の教えが、聖書の教えと似ているとはいえ、彼女が選んだ道は、キリスト教からみたら、信仰を捨てたと批判されるでしょう。
私たちにとってはつまずきになりかねない道を、なぜあえて今日話したのか。
それは、ここにはクリスチャンが家族に接する時、忘れてはならないことが教えられているからです。
つまり、もし私たちが聖書をよく知り、イエスに対する信仰を持ち、人々を救いへと勝ち取る情熱に溢れていて、
−河村さんはそれをすべて持っていましたー、しかし愛がなければそれは私たちに確信ではなく葛藤を与えるということです。
河村さんが幼い頃から培っていた信仰は、明治・大正という迫害の時代の信仰です。
今日のクリスチャンの信仰よりも、はるかに骨太で、熱心さに溢れていたものでした。
私たちのだれも、彼女を挫折者とさばくことのできる者はおりません。
しかし夜中にまで部屋に押しかけ、一方的に聖書の言葉を語っていた彼女は、自分でも気づかないうちに、自分の心を傷つけていたのです。
クリスチャンが愛を置き忘れたまま、それでも神のために働いているのだと言うとき、私たちは何よりも自分の中のイエスを殺しているのです。
なぜならば、愛というのは相手を大事に思うことだからです。
そして救われていない両親が、彼女の行動をまったく責めないという無言の行動を通して、神さまは彼女にそれを教えておられたのです。
残念ながら彼女はそれに気づくことができなかったのですが。

 確かに、私たちはイエス・キリストこそ唯一の救い主である、と告白します。
しかし、だからといって他の宗教や信仰を攻撃したり、破壊しようとすることは、神さまが決して喜ばれることではありません。
まだ救われていない人々であっても、真理を知らない哀れな人たちとして見ることなく、私よりも優れた人として、尊敬で見つめてください。
尊敬がなければ、そこに愛は生まれません。親が子どもを愛する、というのは子どもを尊敬することでもあります。
尊敬がなければ、子どもはいつかその愛が親の独りよがりであることに気づきます。
夫婦が愛し合うというのは、夫が妻を敬い、妻が夫を敬うということです。
伴侶を人前で「これ」呼ばわりしたりする人が、いや、本当は尊敬しているんですとは言えないでしょう。
そして、たとえこの日本で99%の人がまことの救い主を知らないのは事実であっても、
だからといってその99%は救われた私たちに比べて「愚かな人たち」ではありません。
私たちが先に救われたのはただ神さまの一方的な恵みです。どんな人にも尊敬を払うことを忘れずにいきましょう。

3.
 私たちは今日の箇所から誤解してはならないのですが、イエス様は、地上の家族を決して大事にしなかったということではありません。
地上の家族を大事にできない者が、どうして霊の家族を大事にすることができるでしょうか。
私たちクリスチャンは、地上の家族を大切にします。大切にするというのは尊敬するということです。
自分を愛するように、神を愛するように、地上の家族を尊敬し、大切にします。
しかし家族を愛することができるのも、神のことばを聞くことがあってのものです。
イエス様は言われました。「わたしの家族とは、神のことばを聞いて行う人たちのことです」。
神のことばは、聞いて、行って、はじめて本物になります。
神のことばを聞いても、それが行動に表れなければ、ただの自己満足でしかありません。
そして自己満足は、相手を大事に思うという愛に気づかされなければ、私たちの霊的いのちを奪いとってしまいます。

 今日の聖書箇所は、肉の家族よりも霊の家族のほうが大事という読み方をすると、本質を間違えてしまいます。
肉の家族にしろ、霊の家族にしろ、そこに求められていることは、神のことばをともに聞き、ともに行う交わりです。
もし肉の家族を救いに導きたいなら、まずできることは、
自分自身がこの礼拝で神のことばを聞き、聞いたことばを家族の中で実践していくということです。
クリスチャンの中には、教会で説教を聞いてもわからないのだから、家で礼拝を守っても同じだという人がいます。
しかし決してそうではありません。私たちにとってわかる、わからないということは問題ではありません。
私たちの心がどんなものであろうとも、神さまがこの礼拝の時を通して語りかけようとしていることが大事なのです。
神さまが私たちの心に働いてくださらなければ、どんなにわかりやすい説教が語られたとしても、人は変わりません。
なぜなら、イエスが十字架で私たちのために死んでくださったという信仰は、頭で理解したり感動で受け入れるものではないからです。
まず神のことばを聞くことが何よりも大切です。
自分の心や、生活がどんなに積極的に動こうとしないときでも、まず神さまのことばを聞く、この礼拝の時間を聖別することです。
聞かなければ、行うことはできません。みことばを聞くとき、そこに私たちは喜びが生まれます。
その喜びあって、自分とは違うまわりの人々をさばくのではなく、受け入れることができるのです。
posted by 近 at 17:00 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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