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2016.2.14「主がおられるから頑張れる」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の礼拝では、ある教会員の方のお子さんの、幼児祝福式を行いました。
「腕白でもいい。たくましく育ってくれ」は昭和世代には懐かしいCMコピーですが、
たくましさ以上に、どうか子どものうちに主イエスを信じる平安に出会ってほしいと願ってやみません。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』127篇1-5節
都上りの歌。ソロモンによる
1 【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
3 見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。
4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

1.
 今日は礼拝の中で、○○くんの幼児祝福式を行いました。
○○くんがこれからの人生を歩むにあたり、必要なみことばを・・・と願いながらも、
まだ○○くんにはわからないでしょうから、お父さんお母さんに、代わりに受け止めて頂きます。
ご両親が○○くんに教えてほしいものは、「平安」です。
平和、安心とはほど遠い、今の社会であり世界であるからこそ、「平安」を具体化する家庭を築いて頂きたいと心から願います。
今日の詩篇は、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」という言葉から始まります。
「家」「建てる者」という言葉から大工が家を建てることを連想しますが、じつはこの「家」とは、家庭を意味しています。
主、つまり神さまが家庭を建てるのでなければ、建てる者、つまり親の働きはむなしいもの。
しかし親が、自分の家庭は神さまのものであると考えて、まさに主導権を主にゆだねるとき、何が起こるでしょうか。
「子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」という言葉を心から受け入れることができるのです。

2.
 現代ではなく、あえて当時の生活を想像しながら、このみことばを味わってみましょう。
父親は、昼間は家族を守るために働き、夜にはその疲れを引きずりながら、町を守るために城壁の上で寝ずの見張りにつきます。
昼間の疲れでうとうと眠ってしまいそうになるとき、カサカサいう気配にはっとして、ハッと飛び起きる。
風か小動物の足音にさえ気を抜くことのできない、当時の人たちの生活を描きながら、ソロモンはあなたに問いかけます。
あなたが頼りにしているものは何か。
人々はこう答えるでしょう。自分だけだ。自分がしっかりしなければ、家族も町も守れない。
しかしソロモンはこう歌うのです。「あなたが家族を建てるのではない。あなたが町を守るのでもない。
あなたが家族を守り、町を守っているその働きは、まず神があなたの上ですでになされていることを信ぜよ。
そうでなければ、あなたがしていることはすべてむなしい」と。
もちろんソロモンは、建てること、守ること、勤勉に働くこと、をむなしいと言っているのではありません。
問題は、主が備えてくださるということを無視して自分の力でやった、と考えること、それがむなしいのです。

 定年退職者に起こりやすいストレス障害のひとつに、「わし症候群」というものがあります。
家族に対して「わしが食べさせてやってきたのに」「わしがいなければ何もできないくせに」と「わしが」「わしが」を連発するようになる。
それまでは仕事という自分の居場所があった男性が、定年になって家でゴロゴロ過ごすようになって家族からも邪魔にされ、
「わしが」「わしが」と連発して、心もからだも壊していく。しかし決して、定年になった後の話だけではないように思います。
自分がいなければ、仕事が動かない。自分がいなければ、子どもたちはどうなる。
自分がいなければ、・・・と考えたことがないような人は、おそらくいないでしょう。
しかし「自分がいなければ、会社はどうなる、家族はどうなる、社会はどうなる」とつぶやくのは、
本当に会社、家族、社会を心配しているのではなく、自分の居場所を失うことへの恐れです。
そして人の恐れは、神の平安によって解決されなければなりません。
「わしが」「私が」「自分が」と言いそうになるとき、このことばを思い出しましょう。
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。

3.
 毎週日曜日に、○○君がお母さんやお姉ちゃんと一緒に教会に来てくださることは恵みです。
ぜひお父さんも毎週一緒にどうですかというのは置いといて、○○君を観察していると、とにかくよく動くなあと思います。
教会には椅子がたくさんあるのですが、○○君はよくその椅子の脚をつかんで、立ち上がって歩こうとしますし、
立ち上がらないときもまるで自衛隊員のような匍匐(ほふく)前進でいつも動いています。
おそらく将来は、「何でも見てやろう」と諸国をまわって人生経験を積み重ねていくような生き方を目指すかもしれません。
しかしだからこそ、○○くんにご両親はこれから教えていただきたい。
あなたが歩いて無事に目的地に着くことも、あなたが家を無事に建てることも、あなたが町を守ることも、
すべてはあなたを造られた神さまがおられて、あなたを通してそれを実現させてくださったことなんだよ、と。

 この詩篇をどうぞ心の中で繰り返してください。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい、と始まる、これらの言葉を心に刻みつけてください。
決して私たちの頑張りを無駄だと言っている言葉ではありません。
しかしその頑張りを、見えないところから常に支えているお方がおられるのです。
そして頑張れない時には、私がそれをしてあげるからいいんだよ、と言ってくださる方がおられるのです。
神さまは、ちいさな子供が親のために重い石を運ぼうとしていると、その子供ごと石を軽々と肩に乗せて運んでいく力強い父親のようです。
明らかに自分の力に余る重い石を幼児が顔を真っ赤にして運ぼうとするのはなぜでしょうか。
それは何とかしてお父さんの役に立ちたいと思うからです。そしてお父さんがかならず手伝ってくれる、と幼な心に信じているからです。
しかし父は、子供の予想を遥かに超えて、なんと子供ごと重い石を運んでいきます。その力強い父こそ、私たちの神、主イエス・キリストです。
建てる者の働き、守る者の見張り、私たちのすべての労苦はこの主の守りを確信すればこそ意味があります。
その確信は、決して私たちから取り去られることのない、神の平安です。
○○くん、そしてご家族が、これからの人生において、神の平安をいつも覚えることができるように、お祈りをいたします。
posted by 近 at 18:06 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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