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2016.2.28「信仰の家族に善を」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
いきなりですが、PRです。教会のホームページが変わりました。toyosakakyokai.comからtoyosakakyokai.netになりました。
旧アドレスで5年間ほど外部委託してきましたが、もろもろの事情で(お察しください)自社開発になりました。
独自ドメイン(わかりやすいHPアドレス)は、新規取得は簡単なのですが、同じものを再取得するのは大変だということがわかりました。
できれば「.com」で継続したかったのですが、取得までの間HPが見られなくなってしまっていたので、急きょ「.net」で制作しました。
教会チラシが数千部残っており、これからシールを貼らなければなりません。とほほ
なお右側のリンクは、すでに新アドレスに変えてあります。まだとりあえずレベルなので、これから手を加えていく予定です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ガラテヤ人への手紙』6章6-10節
 6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

1.
 今日は、午後に教会総会を予定しております。
総会では、まず最初にその年の目標聖句が選ばれ、これからの一年間このみことばを心に刻みつけながら歩んでいきましょう、となります。
世の中に総会と名のつくものはたくさんありますが、目標とする聖書のことばをまず選ぶというのは、もちろん教会だけです。
それはまさに私たちクリスチャンの信仰生活が、神のことばに従ってこそ祝福され、
そうでなければどんなに祝福と見えたとしてもそれはこの世の成功でしかないのだということを示しています。
たとい教会にどれだけ人が集まろうが、どれだけ一生懸命活動が行われようが、
それがこの総会で与えられたみことばに結びついていないのであれば、その活動は教会でなくてもできます。
しかしもし教会の歩みがそのみことばに繋がっているならば、
たとえ世間的には停滞とか失敗と呼ばれるようなものでも、教会は確かに見えないところで成長しています。
 先週教会員の方にお配りした黄色の総会資料には、第46回教会総会と書いてあって、その下にやや小さく2016年度とあります。
第一回総会は1971年度に開かれました。あれ、と思う方もいるでしょう。
初代牧師が赴任して教会として始まったのが1972年度なのに、その前から総会があったのか。
あったのです。
その二年前にここが保育園として始まり、いつかは正式な教会として、という思いが強まる中で、第一回総会が開かれたのです。
そのときにも、みことばが選ばれました。
それ以来40年以上、夫婦に例えるならばまさに富めるときも、貧しいときも、健やかなるときも、病のときも、
教会は一度も休むことなく必ず年の初めにはこうして総会を開き、そこでみことばが選ばれてきました。

2.
 さて、今年の目標聖句(10節)は、6節から始まるこの段落全体を学ぶことなしにはこじつけで終わってしまいます。
パウロはまずこう勧めています。6節、「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい」。
このところを皆さんはどう解釈するでしょうか。みことばを教えられる人、つまり信徒は、みことばの祝福を受け取る代わりに、
牧師を経済的に支えなさい、実際ここからそのように語った説教も聞いたことがあります。
しかし霊的祝福のお返しにモノで支える、としたら、それは交換であって、「分け合う」とは違います。
むしろ、牧師も信徒も、同じ霊的祝福をお互いに与え合うのです。そしてそれがなされるのは、何よりもこの礼拝の時なのです。
よく「礼拝をささげる」という表現を使うことがあります。
それは決して間違ってはいませんが、もしそう言うのならば、文字通りささげてほしいのです。これは献金の勧めではありません。
ささげるのはお金ではなく、私たちの心です。賛美をささげます。祈りをささげます。説教をささげます。
だれにささげるのでしょうか。もちろん神さまにささげるのです。
今、説教が語られているとき、牧師である私は、語ることで自分自身を神さまにささげています。
そしてみなさんは、聞くことで自分自身を神さまにささげています。
耳をそばだてて、心に刻みつける思いで説教を聞くときに、みなさんも私と一緒に神さまに説教をささげているのです。
クリスチャンであろうが、求道者であろうが同じです。もっとも良いものを、今私たちは分け合って、そして神さまにささげているのです。
そこから本当に幸せな人生が始まります。
 その意味で、パウロが強く語るように、思い違いをしてはならないのです。「幸福な人生を過ごす」というタイトルの本を目にしました。
しかし幸福な人生は過ごすものではありません。自ら蒔いて、自ら刈り取るものです。
つまり、過ごすという消極的な姿勢ではなく、自ら汗して種を撒く積極的な行動に転換するとき、そこに幸福な人生が生まれます。
しかし肉、つまり欲望を満たす努力に費やされる人生はむなしいものです。
どれだけ労苦しても、それは一時的なもので終わってしまいます。
だから聖書は約束します。御霊によって蒔きなさい、そうすれば御霊から永遠のいのちを刈り取るのだ、と。
この礼拝は私たちの人生の学校です。人生のあらゆるものを私たちはこの礼拝で学びます。
時には、自分の罪が示されて、苦しい思いをすることもあるかもしれません。
しかし罪を悔い改めるならば、その後には罪をまったくきよめられた解放感と喜びがやってきます。
私は、そのような礼拝をみなさんとこれからも分かち合っていきたいと願うのです。

3.
 先日の礼拝説教で、朴先生が、クリスチャンは、その隣にいるだけでなんとなく楽しいという人々のことだと言われました。
そしてこの教会は、苦虫をかみつぶしたような礼拝者ではなくて、喜んでいる礼拝者に満ちていると語ってくださいました。
豊栄教会には、おそらく欠点もたくさんあります。
しかしそれらを補って余りある多くの長所をひとつだけ挙げるなら、どの世代も、いつも一緒に活動していることです。
たとえば礼拝後の愛餐会は、子どもからお年寄り、青年、壮年、婦人が一緒のテーブルで過ごします。
当たり前のことに見えるかもしれませんが、決してそうではありません。
今、多くの教会では礼拝が終わったら、蜘蛛の子を散らすかのようにぱっと帰ってしまうということです。
その意味で、豊栄はいまや貴重なガラパゴス教会です。
壮年・婦人・青年が一緒に行動している教会の姿は、本当の意味で信仰継承がなされているということでもあります。
信仰継承とは、単に子どもに信仰を引き継ぐという意味ではありません。
どんなに少子化の時代にあっても、今ある教会の中で、今いる人々の中で信仰が共有されているということ。
そんなひとり一人の姿があって、初めて子どもたちも、この大人たちのようになりたいと思える教会が生まれます。
 私は、教会の一致というのはみなが同じ方向を向くことではない、ということを常々申し上げてきました。
それは一致というこぎれいな言葉を借りた、全体主義でしかありません。
本当の一致というのは、一致一致といちいち言わなくても、ここにいるだけで、自分は帰るべき所に帰っているのだという安心感です。
まだイエス様を知らない人々が、教会に引きつけられる魅力を感じるとすれば、そこにあるのです。
隣にいるだけでなんとなく安心できるというだけでなく、ここに私はいるべきだと、未信者の人も思うことができる教会。
そんな教会を一年間意識していきましょう。
そしてすべての人を平安で潤すことができるためには、まず信仰の家族である私たちひとり一人がお互いに善を行いましょう。
礼拝から遠のいている方がいたら、誰かが、ではなくて、私が、とみなが思いつくような教会になったら、すばらしいと思います。
牧師から言われなければ動きません、というようであれば、統制はあっても命のない教会になってしまいます。
私たちは信仰の家族に善を行いましょう。
それを通して、世の人々もまた、その中に加わりたいという教会の姿が起こされていくように祈りましょう。
posted by 近 at 10:09 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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