こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』13章1-15節
序.
数年前の大河ドラマ「八重の桜」にも出てきた、同志社大学の創立者、新島襄のエピソードに、「自責の杖」という出来事があります。
現在は学生数26000人を擁する同志社ですが、140年前の開学当初はわずか8名でした。
しかも変人と呼ばれていた新島の下に集まってきた8人ですから、イエス・キリストの十二弟子に劣らずアクの強い人ばかりだったそうです。
一年目は何とか問題を起こすことなく終わりましたが、二年目にはいり、彼らは後輩との関係に不満をもって授業をボイコットしました。
たまたま留守にしていた新島は急いで学校に戻り、必死で授業をボイコットした二年生たちを説得し、彼らも拳を降ろします。
しかし教員や一年生のあいだから、学校をかき乱した彼らを厳しく処分すべきだという声が挙がり、新島は苦しい立場に置かれました。
そんな中で、ある朝の礼拝で、壇上に立った新島は厳しい表情で今回の事件の顛末を語り始めます。
そして学生たちの目を見据えながら、こう語りました。「今回の一件は、私の不徳のいたすところ、責任はすべて自分にある」。
そう言うが、突然右手に持っていた杖で左手を叩き始めました。
何度も何度も強く打ち付け、新島の手は腫れ上がり、杖は真っ二つに折れ、破片が飛び散りました。
それでも新島は叩くのをやめようとしません。
学生たちが彼の腕にしがみつき、泣きながらそれを止めました。その後学校は結束を得たそうです。1.
新島が彼は自分の腕を何度も打ち叩きながら思い浮かべていたものは、イエス・キリストの十字架の痛みでした。
主イエスが私の罪の代わりに十字架に釘で打ち付けられたことに比べたら、この痛みなど何物か、と自らの腕を杖で打ち叩き続けました。
十字架は、神が私たちをどれほど愛しておられるかというメッセージです。
そして十字架にかかられる前の、このイエスが弟子たちの足をひとりずつ洗った出来事も、十字架と強く結びついています。
当時、客の足を洗うというのは、奴隷が行う仕事でした。しかもただの奴隷ではありません。
ユダヤ人の奴隷は、客の足を洗うことは免除されていました。
外国人、つまりユダヤ人から見たら汚れた者とみなされていた外国人の奴隷が、客の足を洗うという仕事をしていました。
その最も低い身分の者が行う仕事である、足を洗うということを、師であるイエスが弟子たちにしている!
弟子たちはさぞショックを受けたことでしょう。
しかしだからこそ、彼らはイエスがよみがえられた後、この出来事を決して忘れず、教会の中で語り続けたのです。
キリスト教は、愛の宗教です。しかしその愛は、神が高いところから見下ろしている愛ではありません。
ピリピ教会への手紙にはこう書かれています。「キリストは、神でありながら、神のあり方を捨てて、ご自分を無にして、人に仕えられたのだ」。
それを一言で言うならば、謙遜ということができます。
私たちは謙遜ということばを聞くと、人のほめることばに「いやいや、それほどでも」という浅い理解しか持っていないかもしれません。
謙遜とは、捨てることです。自分の立場を捨てます。どう見ても自分が正しい、と主張する権利さえも捨てます。
師でありながら弟子の足を洗ったイエスと、神でありながら人の罪のために十字架で死なれたイエスの生き方は、同じです。
謙遜から愛が生まれます。言い換えるならば、謙遜を知らない愛は、自己愛や偽善にすぎません。
「互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい」と、パウロはピリピ教会に書き送っています。
私たちは謙遜を通して、初めて互いに愛し合うということができるのです。
しかし自分の力では、謙遜、つまり自分を捨てることはできません。
だからこそ、イエス様に洗ってもらわなければなりません。足を洗ったたらいの水は、十字架で流されるイエスの血潮そのものです。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」。
それは、十字架でイエスが私のために死なれたことを信じることなしには、私たちの人生は愛し合うという喜びがないことを教えています。
2.
イエスが弟子たちに示された愛の大きさを、そして私たち罪人に向けておられる愛の大きさを味わいましょう。
このとき、悪魔はイスカリオテのユダの心に、イエスを裏切る思いを与えていました。そしてイエスはそれを知っておられました。
しかしイエスはその足を洗ってくださったのです。いま裏切ろうとしている者にさえ、イエスはしもべとして仕えられたのです。
ユダは、手ぬぐいで自分の足を拭いてくださるイエス様の姿を、いったいどのような思いで見つめていたのでしょうか。
ユダの心の中は、私たちにはわかりません。しかしイエス様の心から生まれた行動は、聖書ははっきりと記録しています。
「イエスは、その愛を残るところなく示された」。その愛は、まっさきにユダに向けられていた愛です。
たとえ悪魔がユダの心に狙いを定め、裏切りをもはや引き返せないところまで進めていたとしても、ユダよ、引き返せ。
そんな呼びかけを心に響かせながら、イエス様はユダの足を洗っていたのではないでしょうか。
確かにユダの裏切りは、神さまの永遠のご計画の中に定められていたことを、イエスご自身も語っています。
しかしそれは運命論ではありません。決まっていたのだから仕方がないんだという結論で納得してはならないことです。
新約聖書の中には、その信仰によってイエスさえも驚嘆させて人々が何人も登場します。
ことばだけをくださいといったローマの百人隊長。子犬でも主人のパンくずは頂きますといったカナン人の母親。
着物のふさにでも触れば直る、と近づいてきた女性。友人の中風を治すために、屋根をはがしてイエスの前に床を降ろした人々。
彼らは、その信仰によって、イエスを驚かせました。イエスは、そんな人々に例外なく「あなたの信仰があなたを救った」と言います。
それは彼らの信仰はイエスの期待に応えただけではなく、イエスの予想の斜め上にまで到達していたという証しです。
神はすべてを知っておられますが、人はその信仰によって神を驚嘆させることができるのです。
そしてユダがそうなれないという理由はありません。そしてユダだけでなく、ひとりの例外なく私たちは信仰を求められているのです。
結.
イエスは、ご自分の十字架を通して、信じる者を完全に洗い清めてくださいます。
信じてからも私たちは罪を犯しますが、そのたびに神の前に罪を悔い改めるとき、私たちは御霊によってその罪を洗い流していただけます。
しかし間違えてはなりません。イエス様を救い主として信じ、そのことばに従う決心をしなければ、私たちの心は変わらないのです。
人はどれだけ努力しても自分で自分の心をきよめることはできません。
ただ神のことばを信じるときに、私たちの心は変わり、人生は意味を持つのです。
イスカリオテのユダは、イエス様が自分の足を洗ってくださったときに、彼が心を開くならば、罪がきよめられることを信じようとしませんでした。
心を頑なにしたまま、やがてユダは闇のとばりの中へ消えて行き、主の愛はたらいの水と一緒に外へ流されてしまったのです。
イエス様が、洗ってくださった水そのものに、魔法のような力はありません。
そして十字架そのものに、自動的に全人類を救う力があるわけでもありません。
洗いの水も、十字架で流される血潮も、それが力を持つには、私たちの信仰が必要です。
私は罪人であり、救いを必要としている、そして水や血潮が私のためだったのだ、と心から信じるとき、それは永遠のいのちへの扉を開きます。
自分の犯してきた罪を見つめ、悔い改めましょう。その罪のさばきを、主イエスが代わりにすべて引き受けてくださったのだと信じましょう。
それだけで、私たちの人生は闇から光へと変わります。無関心だった世界に、互いに愛し合う生き方という灯火が生まれます。
ひとり一人が、今、主の前に祈りをささげましょう。
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2016.3.6「愛は謙遜」
posted by 近 at 16:54
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