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2016.3.27「墓に向かえば」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
風邪をこじらせてしまいました。皆さんもお気をつけください。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』28章1-10節 

序.
 この地元にある、豊栄図書館と葛塚中学校は、世界的にも有名な建築家・安藤忠雄の設計です。
図書館も中学校もまん丸い形をしており、とくに中学校は遠くから見ると着陸したUFOのようです。
安藤忠雄はまるい形が好きなのかなあと思いましたが、彼が30年前に設計したという、大阪の教会はむしろ逆で、完全な四角形です。
なんでもその教会の役員が安藤の友人で、予算的にも相当無理をいって彼に設計したもらったそうですが、
その会堂の完成模型を見せられた牧師は、おもわずがっかりしたと言います。
まるで棺桶のような直方体の箱に、ただ斜めに仕切りが刺さっているだけのものだったからです。入口も小さく、ぬくもりも感じられない、と。
しかし実際に教会堂が完成し、そこに入ったときに、牧師はじめ教会員は息をのみました。
というのは、そのわずか30坪の箱の中に、光と闇の対比が限界まで詰め込まれているということが素人にもわかったからです。
入口が小さいのは、外から光が入ってくるのを防いで闇を強調するためだった。
そしてその闇を、正面の十字架形の窓からこぼれてくる光が切り裂いていく。
この教会は、「光の教会」と名付けられ、安藤忠雄の代表作の一つに数えられています。

光の教会2015_05_27.jpg1.
 彼のデザインした教会堂は、そこに入らなければまるでコンクリートの墓か棺桶のようにしか見えないものでした。
そして実際に、今日もほとんどの日本人は、教会をまるで生気のない墓のように考えています。
教会にはなるほど、クリスチャンは日曜日に行くだろう、しかし自分たちにとっては関係ないし、せいぜいクリスマスぐらいは行ってやろうか、と。
そして今日の教会は、そんなこの世の人々のイメージを払拭すべく、色々な行事やカルチャー教室を積極的に行っています。
それを否定するわけではありませんが、しかし教会が墓のようにこの世の人々に見られたとしても、それでいいではないかとも思います。
たとえ行き先が墓だとしても、その墓に向かったときに人生が変わった人々の姿を、聖書はこうやって教えてくれているではありませんか。
このマタイの福音書では、女たちが墓へ向かった理由については書いていませんが、別の福音書ではこう書いています。
「彼女たちは、イエスの亡骸に香油を塗るために、墓に向かった」と。
彼女たちはイエス様がよみがえると信じていたから墓に向かったのではありません。イエス様は死んだのだ。死んで、墓に葬られたのだ。
そこにはよみがえりの希望もなく、いのちよりは死のにおいがあります。
しかし彼女たちはこう思いました。臨終の香油も塗ることができなかったイエス様の死。せめて私たちが香油を塗って差し上げたい。
でも、墓の入口にある重い石のふたをだれか動かしてくれる人がいるだろうか。そんな思いを抱きながら、彼女たちは墓へ向かいました。
彼女たちが墓に向かったのは、生きたイエスに会うためにではありません。イエスの死体に油を塗るために墓へ向かったのです。
しかし理由がどうであれ、墓に向かったときに、彼女たちはよみがえったイエスに出会ったのです。
教会が墓だとしたらそれも結構。墓に向かえば、予想もしなかった、人生の転回点がそこには必ず待っています。
神は、墓の中にも、闇の中にも、生きておられます。死を通して永遠のいのちを証しされます。闇を通して光を証しされます。
死は終わりではない、闇は絶望ではない、と語られます。

2.
 いま、闇は絶望ではない、と言いました。
しかしそれはよみがえりのイエスに出会ったから、そう言えるのであって、墓に向かうこの女性たちの心にあったのは、希望ではなく絶望でした。
イエス様は死んだのだ。私たちは十字架でイエスが絶命されたのを見た。
死亡確認のために、ローマ兵がわき腹を槍で刺したのも見た。その亡骸が十字架から降ろされ、墓に納められるのも見た。
彼の死の一部始終を私たちは見ていた。救い主は死んでしまったのだ。
彼女たちも、十一人の弟子たちも、「わたしは三日目によみがえる」と言ったイエス様のことばを覚えている者はだれもいませんでした。
そこには絶望がありました。しかし心が絶望に覆われたときであっても、神はその心の中に、私たちにやるべきことを与えてくださいます。
彼女たちにとって、それが、墓に向かうことでした。
彼女たちはイエスがよみがえるという言葉を信じていたから墓に向かったのではありません。
あくまでもイエスの死体に油を塗るために墓に向かったのです。しかしそれでも、彼女たちは墓へと向かいました。
間違いなく彼女たちは、イエス様は死んでしまった、という自分自身が見た現実を頭から信じていました。
しかし、だからといって、だからもうやるべきことは何もない、とは考えませんでした。
すべての望みが絶たれたとしても、それでも命があるならば、何かができます。
それは彼女たちにとっては、墓に向かうことでした。そして私たちにも、何か別のことが与えられているはずです。
末期の癌と宣告された芸術家が、死の床の中だからこそ、自分の人生がすべて凝縮された最高の作品を残したという話を聞くことがあります。
私たちを行動に駆り立てる力は、希望ではありせん。
希望がない、絶望ばかりだというような状況の中にあっても、生きよう、生きようとする力を、神は人に備えてくださっているのです。

結.
 最後に、ひとつのことばに目をとめて終わりましょう。
よみがえったイエス・キリストは、驚く女性たちに「おはよう」とあいさつし、こう言われました。
「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」と。
自分を裏切った弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼んでくださるお方は、今も私たちを兄弟と呼んでくださるお方です。
私たちは、今までの人生で神を無視し続けてきたこともありました。
神が与えてくださった期待を、結果として裏切ってしまうような罪深い者でもあります。
しかしたとえそうであったとしても、イエス様の愛は私たちから決して取り去られることはありません。
そして私たちが今日、イエスを信じるならば、人生が変わるのです。
世の人々は、クリスチャンを、すでに二千年前に死んでしまった人間イエスを、いまだに神と崇めているあわれな人々とさえ言います。
しかしイエスはよみがえられました。そして今も生きておられます。私たちの中に生きておられ、天でもまた私たちのために祈っておられます。
このイエス・キリストを救い主として信じ、このお方に自分の人生をゆだねましょう。そこにこそ、私たちの本当の人生の目的があるのです。
いずれなくなってしまうもののために生きるためにではなく、いつまでも消えることのないもののために、この命をかけていこうではありませんか。

posted by 近 at 15:49 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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