こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』19章1-10節
序.
「トラトラトラ、われ奇襲に成功せり」。歴史に興味のある方は、この暗号電文をご存じかと思います。
1941年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を先制攻撃したときに、その攻撃隊の隊長であった、淵田美津雄大佐が送った暗号です。
日本人にとっても、世界史においても、忘れようとも決して忘れることのできない悲惨な戦争がここから始まりました。
敗戦後、彼は人生の意味を失い、何度も自問しました。何のために戦ったのか。何のための人生だったのか。
しかし、ある一冊の本との出会いが、彼の人生を変えました。その本のタイトルは、「私は日本の捕虜だった」。
作戦に失敗して日本軍の捕虜となりながらも、終戦後日本人に福音を伝えるために宣教師になった、元アメリカ軍人が書いたものでした。
そこに書かれていたイエス・キリストを知ったとき、過去に縛られていた彼の心は、解放されました。
そして淵田大佐もまた、その宣教師と同じように、伝道者の道を選びました。
彼は終戦後、罪悪感から自分が真珠湾攻撃隊の隊長であったことを隠していたそうです。
しかしキリストの御名があがめられるために、そしてあの宣教師への敬意も込めて、こんなタイトルの本を書きました。
「私は真珠湾攻撃の隊長だった」。その本を片手に、彼は日本全国を回り、なんとアメリカまでも伝道旅行に行きました。
「ジャップ、リメンバー・パールハーバー」、たくさんのアメリカ人にそんな罵声を投げつけられても、キリストを語り続けました。
そして亡くなるまでのあいだ、キリストのしもべとして歩み続けました。
1.
イエス様は、悔い改めたザアカイを見つめながら、「人の子は失われた人をさがすために来たのです」と言われました。
「失われた人」とはどういう人でしょうか。
神様からすばらしい能力を与えられながら、それを神さまのために用いることなく、神以外の偶像に費やしている人です。
すべての人は、神様からかけがえのない能力を与えられています。
ザアカイは、能力もあり、リーダーシップにも長けていた人でした。
しかしその与えられた力を、彼は財産を増やして、心の穴をふさぐことにしか使っていませんでした。
そしてこの淵田大佐もそうであったのです。彼はミッドウェー海戦で大けがをして戦列を離れた後、海軍の参謀になりました。
そしてあの有名な、体当たり攻撃、神風特攻作戦に大きく関わったのです。
神風で死んでいったパイロットたちへの感謝状は、この淵田大佐がその文章を作っていました。
戦闘機の操縦も一流、人の心に迫る文章を書くことも一流、。
しかしその才能は、敵の命を奪い、味方の死を隠すことに費やされていました。
しかしイエス様を信じるならば、私たちは内側から作り変えられます。
どんな人も、自分に与えられた力を、神様のために、そして人の命を愛し育むことのために用いることができるのです。
確かに人は誰もが罪人として生まれてきます。
しかし神様は、罪人として生まれてきた私たちが、罪人のまま生きることを願ってはおられません。
救い主イエス・キリストを信じるとき、私たちの力を本当の意味で生かすことのできる、すばらしい人生が始まるのです。
2.
ザアカイは、エリコで知らない人はいない、超有名人でした。しかし決してよい意味で有名だったのではありません。
むしろ悪い評判、税金を不法に取り立てて私腹を肥やし、ローマ帝国に寝返った売国奴、と呼ばれていたことでしょう。
そしてザアカイは、自分とはまるで正反対の、よい評判で溢れたイエス・キリストに興味を持ちます。
ザアカイもまた、人波をかきわけて、イエス様に近づこうとしました。しかしいかんせん、ザアカイは背が低かった。
そしておそらく、ふだんザアカイに反感を持っている人びとは、この時とばかり、わざと背中の壁を作って、ザアカイを邪魔したことでしょう。
ところで私は、行列に並ぶのが嫌いです。
ときどき「行列のできるラーメン屋」とかいう話を聞くと、たかがラーメンを食べるのにどうして行列に並ばなければならないのかと考えます。
そんなのは時間の無駄。時間の無駄は、すなわち人生の無駄。
そんな私は、ザアカイと同じ立場に生まれていたら、きっとここであきらめてしまっていたことでしょう。
しかしザアカイは違いました。たかがイエスの顔を見るために、いい大人のくせして、いちじく桑の木にワシワシと登り始めたのです。
イエスを見れば、人生が変わると思ったのでしょうか。そんなことはないでしょう。
今まで金と自分しか信じてこなかったザアカイです。イエスを見ようとしたのは、ただの興味。それ以上でも、それ以下でもない。
しかし神は、たとえ「ただの興味」であったとしたも、あらゆることを用いて、私たちの人生を変えてくださるお方なのです。
3.
私たちの人生は、変えようとしても変えられない生活や、自分が原因でトラブルばかり起こしてしまう、といったことで満ちています。
しかしただの興味や思いつきであろうが、背が低いというコンプレックスであろうが、はたまたまわりの人びとからの嫌がらせであろうが、
神さまはあらゆることを用いて、私たちをあたかも人生のいちじく桑の木のてっぺんへと追い立てられるのです。
そこからは何が見えるでしょうか。もう人びとの背中で自分の視界が遮られることはありません。
まわりのことばかりが気になっていた自分を忘れられるような、そよ風が吹いています。
それがもしかしたら、私たちが心を落ち着けることのできる、この礼拝のひとときかもしれません。
そして、ふと気づくと、私にむかって目をあげておられる、イエス・キリストがおられます。
キリストは、私たちの目をまっすぐに見つめ、こう呼びかけられます。
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから」と。
ザアカイという部分は、私たちの名前に置き換えることができます。「あなたの家」とは、私たちの心のことです。
今、イエス様は私たちの心に入りたいと願っておられます。
そして木を降りて、心の中にこの方をお迎えするとき、私たちの人生は確かに変わります。
失われていたものが、本来あるべき場所におさまります。あるべき場所とは、神のふところです。
そして自分に与えられている能力や経験を、今度は自分のためではなく、人のために、そして神のために生かすことができるのです。
結.
きょう、この時、イエスさまはあなたにも語りかけておられます。今日はあなたの家に泊まらなければならないから、と。
今までの自分を縛り付けてきた過去やしがらみから自由になりましょう。
そのためにイエスさまを救い主としてその心に受け入れましょう。
私の家に泊まってください、と。
汚いところですが、この心の中にどうか入ってきてください、と。
心を片付けてからイエス様を招き入れる時間はないし、その必要もありません。
私たちの心の中は、次から次へと生ゴミが投げ入れられるようなところで、しかも自分で片付ける力もありません。
どんなに汚くても、おおばらでよいのです。ありのままの心の中に、ただイエス様をお迎えしましょう。
イエス様が私たちの心を整えてくださるのですから。
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posted by 近 at 19:24
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