先週の水曜日から木曜日まで、わが同盟教団の特別会議で長野の松原湖バイブルキャンプ場(MBC)に行ってきました。
新潟を出たときはどしゃぶりでしたが、二日目の朝は信じられないほどの快晴。一枚、湖畔の風景を撮ってきました。

しかしMBCの難点はとにかく遠いこと。新潟から高速道路を使っても、車で片道5時間かかります。
しかし良い場所なので、わが教団の経営安定化のためにどうぞご利用ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』2章1-24、36-42節
1.
今日、世界中の多くの教会で、この聖書箇所が礼拝説教として取り上げられていることでしょう。
今日はキリスト教会の暦でペンテコステ、聖霊降臨日と呼ばれる日です。
ペンテコステ、はじめてこの言葉を聞いた人はみんなが「ヘンテコ」な名前だなあと思います。
ペンテコステという言葉は、「五旬節」というユダヤ教のお祭りを意味するギリシャ語です。
しかし、キリスト教にとっては、この五旬節は単なるお祭り以上の意味があります。ある人は「教会の誕生日」とも言います。
2000年前のこのペンテコステの日、イエス様が約束しておられたとおり、聖霊なる神が弟子たちひとり一人の上にお下りになりました。
そこから、教会ははじけるのです。
120人の小さな群
彼らがこの日を出発点として、世界中に飛び出していくのです。
しかしペンテコステに聖霊がお下りになって教会が生まれた、というのは、何もないところに突然何かができた、ということではありません。
朝、学校に行くときには何もなかった隣の原っぱに、夕方帰って来たら家が建っていた、ということではないのです。
生まれるというのは、突然その日にぽん、ということではなくて、何ヶ月かけてお腹が膨らみ、今か今かというカウントダウンの中で生まれます。
120人のクリスチャンたちは、みながひとつの場所に集まって、おそらく祈りをささげていました。
あなたがたに聖霊を送る、というイエス様の約束を信じて、ユダヤ人の迫害を恐れず、いっしょに集まることをやめませんでした。
祈りを積み重ねていく一日一日を繰り返しながら、今日がその日だろうか、主よ、来てくださいと励ましあっていました。
その中で、二千年前の今日、ペンテコステの出来事が起こったのです。
今日、二千年前のようなペンテコステが起きれば、日本にもリバイバルが起きると言われることがあります。確かにそうでしょう。
しかしそのためには準備が必要です。準備とは、私たちが基本の信仰生活をなおざりにしないことです。
一緒に集まることをやめたりせず、神のみこころは何か、そのために自分は何を生活の中で優先すべきかを考える。
自分のことを優先するのではなく、神に仕えるように人に仕えることを忘れない。
そのような生き方をもって備えていくときに、神さまは私たちを聖霊によって満たしてくださり、語るべきことばを与えてくださるのです。2.
当時、エルサレムの町は五旬節の祭りのまっただ中でした。町は、お祭りのために集まって来たユダヤ人たちでごった返していました。
そのとき、エルサレムのある民家に集まっていた120人のクリスチャンたちの上に、聖霊がお下りになりました。
私たちが聖霊を受けるとき、風がふいたり火が下ったりということはありません。
しかしこの時は、あえて人びとに聞こえるように、神は激しい風と火を起こしてくださり、人びとは何があったかと集まって来ました。
そしてそこで、彼らは120人のクリスチャンたちが、それぞれの国のことばで神のみわざを語っているのを聞くのです。
しかしペンテコステの日に神がなされたことは、それがクライマックスではありません。
この奇跡をきっかけにして、集まって来た、少なくとも三千人以上の人びとに、神がほんとうになさろうとしたこと。
それは、11人の使徒と共に立ち上がり、声を張り上げたペテロの、ひとつの説教を通して、人びとに罪を悔い改めさせることにありました。
ペテロの説教の中心は何だったでしょうか。それは、キリストを十字架につけたのは、私たち自身だということです。
ユダヤの偉い人やローマの兵隊たちが、イエスを殺したのではない、ということです。ペテロは人びとにこう語ります。
23節、「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」。
たしかに「不法な者の手によって」、と違法な裁判や、ローマ兵たちの暴力もありました。しかし彼らがイエスを殺したのではない。
イエスを殺した主語は、不法な者たちではなくて、「あなたがた」なのだ、とペテロははっきりと言います。
そして36節でも彼の言葉は人々の心に容赦なくナイフを突きつけます。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。
すなわち、神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」。
3.
ペテロは、イエスを十字架につけたのは「あなたがた」だと言います。しかしこの言葉に違和感を覚える人もいるのではないでしょうか。
このペテロが、いったいイエス様に何をしたか。ローマ兵にイエス様が捕らえられたとき、彼は逃げ出しました。
そして人びとの前で、イエスの弟子だよねと聞かれたときに、あんな人のことは知らないと、三度繰り返したような人でした。
だったら、イエスを十字架につけたのは「あなたがた」ではなくて、「私たち」と言うべきではないのか。
しかし、彼が「私たち」ではなくて「あなたがた」と言っているのは、そんな自分の罪を忘れたからではありません。
よみがえったイエスとの出会いを通して、彼は自分の罪がすべて清算されたことを確信したからです。
確かにペテロはイエスを見捨てて、裏切り、知らない知らないと人びとの前で何度も繰り返しました。
しかしその、決して消し去ることはできないと思われた罪もまた、イエス・キリストは十字架の上ですべて背負ってくださいました。
ペテロが受けるべき罪のさばきを、ご自分が引き取って、よみの深みに至るまで持っていってくださったのです。
そしてそれがすべて解決された証拠として、死からよみがえってくださった。
ペテロはだからこそ、確信をもって、あなたがたの罪がどれだけ深くとも、キリストを信じて悔い改めるならば生きることができる、と言ったのです。
なぜか。だって、私自身が赦していただけたのだから、と。
人の心を変えることができるのは聖霊なる神だけです。そして聖霊は、常にみことばと共に働きます。
ペテロの説教を通して、神は人々の心を刺し貫きました。
「あなたがたがイエスを十字架につけたのだ」という叫びは、このとき人々の心を悔い改めへと導きました。
そしてじつに三千人という人々がその日、救われてバプテスマにあずかり、救いの保証として聖霊がひとり一人に与えられたのです。
今の私たちにとって、三千人も救われるなんてことは、この日本では夢のまた夢と思われるかもしれません。
しかし三千人の救いも、ひとりの救いも、その本質は同じです。
神のことばが人びとにはっきりと語られるときに、聖霊がその心を突き刺して、救いに至らせてくださいます。
毎週の日曜日、こうして教会で語られる説教もそうでしょう。
しかし日曜日だけではなく、ひとり一人の信徒が、自分のまわりの人びとと何を語っているか、ということもそうです。
どうか、ひとり一人のクリスチャンが、自分がいかに救われたのかということを喜びをもって人びとに語る一週間といたしましょう。
まず私たちがそれをきょう決断するならば、私たちが語るみことばを通して、神は二千年前と同じ恵みをあらわしてくださるのです。