日曜午後から月曜夜まで、教団事務所に用事があって、泊まりがけで上京しておりました。
週一回しかブログ更新しないのに、それも遅れてしまい、心待ちにしてくださっていた方々
白新線、上越新幹線、山手線、小田急線、東急バスと乗り継ぎましたが、とうぎょうのひとのはぢわりはすまほばっか見てんね。
(拙訳:「都内では、車内でご一緒した方々の8割はスマホから目を離されませんでしたね」)
自分がスマホを持っていないゆえのひがみかもしれませんが、なんか殺伐とした感じです。
新潟駅に着いて白新線に乗り換えたら、ほろ酔いのじいちゃん二人組が向かいの高校生二人にいきなり昔話を始めました。
高校生たちも最初はスマホをいじりながら無視していましたが、豊栄で降りる前にちらっと見たら、四人すっかり打ち解けていました。
新潟はやっぱり平和ですね。こんなほっとする新潟が私は大好きです。
ちなみに白新線は車両ドアが手動で、乗った最後の客が自分で開け閉めします。平和というか、単にイナカなだけかも。
週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』16章6-34節
序.
朝、新聞を開いて最初に読むのは四コマ漫画、という人は、真面目なクリスチャンにはあまりいないようですが、
今日の聖書の物語は、それこそ四コママンガにたとえることができるかもしれません。
四コママンガでは、よく起承転結ということが言われます。一コマ目で始まり、二コマ目で展開、三コマ目で逆転、そして四コマ目でオチ。
今日の箇所でいう「起」は、まず神がパウロに「マケドニアの叫び」の幻を与えられるところでしょう。
そして「承」は、マケドニアで船で向かった最初の港町ピリピで、紫布の商人ルデヤに出会い、神が彼女の心を開いてくださったこと。
しかし三コマ目の「転」、順調な滑り出しに見えたピリピ伝道が、あろうことか占いの霊につきまとわれ、さらには牢に捕らえられてしまう。
しかし神のオチは、挫折では終わらない。真夜中の賛美、奇跡的な地震、そして看守とその家族みながイエス・キリストを信じるのです。
今日の物語を四コママンガに例えたのには、はっきりとした根拠があります。どんなマンガでも、必ず作者が必要です。
では、ここに書かれている作者はだれでしょうか。言うまでもなく、すべてを働かせて益としてくださる、主なる神です。
パウロの行こうとしていた道を次々にとうせんぼして、トロアスでマケドニア人の夢を見させたのは神でした。
彼らに確信を与えてただちにマケドニアへ向かわせたのも神です。ルデヤの心を開いてバプテスマを受けさせたのも神。
占いの霊にとりつかれた若い女奴隷を通して、叫ばせたのも神。霊を追い出された儲ける術を失った主人たちの心を頑なにしたのも神。
真夜中の牢の中で、パウロとシラスの唇に賛美を与えたのも神。囚人たちの心を整えて、その賛美に耳を傾けさせたのも神。
牢屋の土台が揺れ動くほどの地震を起こし、しかし不思議なことに扉と足かせだけうまいこと外してくださったのも神。
しかも囚人たちをひとりも逃げ出させなかったのも神。看守の心を開いて、一家すべて信仰へと導いてくださったのも神。
人の目にはラッキーと見えることも、アンラッキーと見えることも、すべては神の永遠のご計画の中に描かれた、必要な伏線です。
すべてが必要なものとして用意されており、それらが織り交ぜられて、神の作品となっているのが、私たちの人生そのものなのです。1.
ある歴史家は、今日の物語の出発点となった「マケドニアの叫び」がなかったら、今日の世界地図は塗り替えられていただろうと言います。
マケドニアは、今日のギリシャです。パウロが生きた当時において、そこはヨーロッパへの玄関口でした。
今日の物語がなければ、キリスト教とヨーロッパとの出会いはなく、ひいては世界に福音が伝えられることもありませんでした。
しかし驚くべきは、「マケドニアの叫び」は、パウロが描いていたビジョンがすべて破られ、挫折の果てに神が示してくださったものであったことです。
6節、7節をもう一度お読みします。
「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」
聖霊によって禁じられた、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
東に行きたいのに、なぜか見えない力に阻まれる。そこで西にいき、分かれ道で南に行こうとすると、やはり不思議な力で阻まれる。
どうしてなのかわからない。自分の目的が神のみこころにそれているとも思えない。しかし神の見えざる手が、自分の行こうとする道を阻む。
主よ、どうしてですかと追い詰められていき、そしてそこでマケドニア人の幻を見、マケドニアの叫びを聞く。
そこで初めて確信が生まれる。ああ、そうか、私たちがこの叫びを聞くために、神はここまで道を次々と閉ざしていかれたのか、と。
2.
じつは私たちは、これとまったく同じことを、自分の人生の中でいつも経験しているのです。
私たち、というのはクリスチャンに限りません。真面目に生きているのに、どうしてこうもうまくいかないんだろう、と人は悩みます。
クリスチャンとして歩んでいる中でも、神さまに従っているのに、どうしてこんなことが起きるんだろう、ということを経験します。
しかしあらゆることには、すべてを見通しておられ、最善に組み合わせてくださる、神のシナリオがあるのです。
じゃあ戦争は、飢餓は、天災は、という人もいるかもしれませんが、万人が納得できるほど、神のシナリオは単純明快ではありません。
それでも、私たちの人生、そしてこの世界の歴史そのものが、神のシナリオ、聖書的にいえば神のみこころに貫かれているのです。
そして神の計画と、人間の計画はしばしば衝突します。神のために働きたいと思っていても、それが神の計画とぶつかることも多いのです。
パウロたちは、新しい地へ福音を伝えるために情熱を燃やしていました。
しかし神のために働くためには、まず自分の計画とかビジョンといった、そういうものが一度神ご自身によって打ち砕かれなければなりません。
次から次へと道がふさがれる中で、もうどうとでもなれというところを通らされないと、
神のためと言いながらじつは自分のためにやっていた、ということがわかりません。
神はルデヤの心を開いてくださったけれど、占いの霊をつきまとわせたのは、神の裏をかいてサタンがやったことだ、ということはないのです。
主人たちに偽りの罪状で告訴されるわ、ムチで何十回と打たれるわ、足かせをつけられて痛い思いをするわ、
それらは神の及び知らないところで起きたことでしょうか。決してそうではありません。
次々と進路がふさがれたあげく、マケドニアの幻に出会っていたパウロとシラスには、すべてが神のご計画の中にあることがわかっていました。
だからいちいち喜んだり悲しんだりしません。喜ばしく思われる出来事も、悲しく思われることも、すべてが二コマ目のことでしかないからです。
賛美をささげながら、ただ三コマ目の逆転を待てば良い。彼らには、神がすでに次のコマの絵を書いてくださっていることがわかっていました。
だから私たちクリスチャンは、決して絶望しないのです。私がしっかりしなきゃ、とか自分を無理に励ます必要はありません。
神がすでに書き起こしてくださっている永遠のご計画の中で、すべてが組み合わされて、幸いへと導かれることを信じるだけでよいのです。
私たちは、イエス・キリストを信じた者は、神の子どもとされるということを知っています。
私たちのためにご自分のいのちさえも捨ててくださった、イエス・キリストは、私たちに幸いへの道を確かに用意しておられるのです。
結.
さて、最後におぼえたいのは、悔い改めた看守と、彼の自殺をとどめたパウロとのあいだにかわされた、ことばのやりとりです。
「先生がた。救われるためには何をしなければなりませんか」。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」。
これはイエス・キリストを信じたら、家族が自動的に救われるという意味ではありません。
その理由は、クリスチャンならばわかるでしょう。救いは、神さまと私が、正面から、一対一で向き合う、いわば命をかけての取っ組み合いです。
自分の誇りが砕かれ、夢や道が閉ざされ、それでもあなたは私に従うかという呼びかけに対して、信仰で答えたときに、人は救われます。
家長が信じたら、何のリスクもなくみんなまとめて救われる、という安易なものではありません。
むしろパウロのことばは、ことばを補って、次のようにおぼえるべきでしょう。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは必ず救われます。そしてあなたの家族も、主イエスを信じるならば、必ず救われます」。
聖書には、このことばの後にパウロが看守の家族に何をしたか、はっきりと書いてあります。
「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った」と。そして、「そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」と。
「それから、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」と。看守の家族は、たしかに神のことばを聞いて、救われたのです。
このイエス・キリストを信じるならば、私たちは必ず救われます。
信じるためには、みことばを聞かなければなりません。そしてみことばを聞くためには、みことばが語られなければなりません。
クリスチャンは、すべての人々がみことばを語る人として召されています。語りましょう。聞きましょう。信じましょう。
その先には、何があっても決して失望することはない、本当の人生の祝福が待っているのです。