牧師は説教のタイトルを先に決める派と後で決める派に分けられますが、私は後者のタイプです。
毎回、説教のタイトルを考えるのはたいへん苦労します。しかし、今回の説教題は、本文を書き上げる前に浮かびました。
どんなに優れた説教者でも、本当に満足できる説教は生涯でも二、三回あるかどうかと言われます。
まさに今日のメッセージは、私にとってそのような説教そのものとなるでしょう。
罪人なるすべての人間が無意識に支配されている偶像礼拝の桎梏!
同時にキリスト者による、救い主イエスに対する絶えざる歓喜の礼拝!
まったく相反する二重の意味を込めて「拝まずにはいられない」という説教題が与えられました。主よ感謝。
しかし妙にすんなり決まったと思ったら、どうも昔聞いた「愛さずにはいられない」というフレ−ズをパクっていたことに気づきました。
どこかの国のオリンピックのロゴマークで酷評された某デザイナーも、こんな感じだったのでしょうか。
ちなみに、ウィキペディアで「愛さずにはいられない」を調べると、こうなります。

みなさん、パクりすぎです。私も人のことは言えませんが。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』17章16-34節
序.
先月、長野県の松原湖バイブルキャンプ場というところに行ってきました。隣の県なのに、おそろしく時間がかかるところにありまして、
いつもは最短距離をまっすぐ行くのですが、今年はなぜか諏訪湖を見たくなり、ちょっと早めに出発しました。
そして諏訪湖から隣の茅野市というところに入ったのですが、そこで不思議なものを発見しました。
写真を取り損ねたので、帰って来てからインターネットで調べて印刷したのですが、わかりますかね?
茅野駅前のビルの真ん前に、しめ縄を張った、でっかいジャガイモがどんと置いてあるのです。
じつはジャガイモに見えるのは、大きな石でありまして、駅前再開発の工事中に掘り出されたものだそうです。
あまりにも見事な大石だったので、何かいわれがあるはずと思って慎重に掘り出したけれども、
後で調べたらこの場所にそれらしい言い伝えとか、何もなかった、と。
しかし横にある説明文にこう書いてあるのです。「悠々の時を経た巨大岩石が、突然、地上に出現したことは単なる偶然とは思えない。
我々を守る神の磐座(いわくら)であると信じ、シンボルとして、駅前縄文公園隣接に永久保存することにした」。
この国では、神が人を造られたとは語られず、人が神を造る、ということが常態化しています。
現代でさえ、工事現場で発見された、何のいわれもない石を神の宿る石とするくらいです。
縄文時代からの何千年のあいだ、日本人はいったいどれだけの神を造り出してきたことでしょうか。
キリスト教を外国の宗教だと批判する人々は、日本には古来から八百万の神が生きておられると言います。
しかしその神々とは、私たちの祖先が自由勝手に作り出し、しめ縄をはって、拝んできた神そのものです。
造られたものは、それを造った存在を越えることはできません。人間によって造られた神々は、造った人間を守ることはできません。
そしてそんなものは神ではありません。偶像です。偽物です。私たちの時間を奪い、真理への目を曇らせ、滅びへと至らせるものです。1.
私も、高校生の頃、そんな偶像を拝んでいた生活でした。
学校に行く前は神棚にお参りし、学校から帰ってきた後は仏壇に報告し、それぞれご飯とお水を替えてあげるのが日課でした。
そしてそれが信仰ということばの意味だと思っていました。
しかし教会に導かれて、じつは私がしてきたことは信仰どころか、むしろまことの神さまをもっとも悲しませている行いだということがわかったのです。
もし自分がお腹を痛めて生んだ子どもが、自分をお母さんと呼んでくれず。まったくの赤の他人を母親と勘違いし、お母さんと呼びかけていたら、それを悲しまない母親がいるでしょうか。私はそれと同じことをしてきたのです。
私がそれまで礼拝してきたのは、私を造ってくださったまことの神様ではなく、人が作った偽りの神、偶像でした。
もちろん、仏壇を通して、私が亡くなった祖母や祖先に対して示していた愛は、偽りの感情ではありません。
しかし仏壇という偽りの神の宮を通してでなくても、私の家族や祖先に対する愛情は示すことができます。
神が私を愛してくださったように、私の両親、家族、ひいてはこの日本そのものを愛してくださっているということを、私は知っています。
昨年、あるクリスチャンが、日本の神社仏閣をまわって油をかけていた事件がありました。
油をかけることで悪霊の力をきよめると言っていたようですが、彼にとっては武勇伝でも、一般常識では犯罪です。やってはいけないことです。
確かに、聖書は、まことの神以外の、神と称するものは偶像であるとはっきりと述べています。しかし間違えてはなりません。
神社仏閣、あるいは神棚や仏壇の中に悪霊が住んでいるとか、そういう考えそのものが聖書に照らして間違っているのです。
町中が偶像にあふれていたアテネで、パウロが怒りを燃やしたのは、偶像や石像そのものではなく、アテネ人の心です。
ギリシャの詩や文学にも精通していたパウロは、アテネの人々を同胞ユダヤ人以上に愛し、親しみを感じていました。
そのアテネの人々が、「知られない神に」などと、次々に偶像を作って拝み、神のこどもとしての価値を貶めていることに憤りを覚えたのです。
しかし人の心から出る怒りは、相手を否定し殺しますが、パウロの怒りは、神から出た聖なる憤りでした。
彼は、アテネの人々が耳を傾けてくれるような丁寧でわかりやすいことばで、彼らの過ちを諭していきました。
2.
パウロのメッセージと、旧約聖書の記述をまとめて、なぜ人間は、偶像を拝むのかということをお話しします。
世界のすべての人間は、それぞれの文化、歴史、民族に分かれましたが、もともとは、アダムとエバというひと組の夫婦の子孫です。
神が、全人類の祖先として、このひと組の男女を造られました。そしてアダムとエバは、神のかたちにつくられたと聖書には書いてあります。
神のかたちということばの意味はいろいろありますが、そのひとつは、人は神を愛し、拝まずにはいられないものとして造られたということです。
しかし、アダムとエバはサタンである蛇に誘惑され、神のかたちは損なわれてしまいました。人は、神がわからなくなってしまったのです。
ところが、人間の中にある神のかたち、つまり神を拝まずにはいられないという衝動は、不完全ながらも人の中に残っています。
するとどうなりますか。神を拝みたいという衝動がある一方で、本当の神がわからない、罪の結果が、人間の中には同居しているのです。
だから人は、自分が、新しい神を作り出して拝まずにはいられないのです。真っ白い蛇だとか、樹齢何千年の木を神にして拝みます。
亡くなった人間を仏、つまり言葉は違っても神にして、拝みます。工事現場から掘り出された大石にしめ縄を張り、神にして拝みます。
無神論者を自称しても、財産、友情、恋愛、イデオロギーを神のかわりにして拝みます。
すべての人間は、ひとつのことで共通しています。それは、何かを拝まずにはいられない、ということです。
しかし同時に、すべての人間はふたつに分けられます。本当の神を拝んでいるか、それとも偽りの神を造り出して拝んでいるか、です。
あなたはどちらを選びますか。本当の神を礼拝するならば、その人生には何が起きても決して見捨てられないという、平安があります。
しかし偽りの神を礼拝する者には、平安がありません。自分の信心が足りなければ、いつ見捨てられるかわからないからです。
3.
以前、ある教会の指導者が、家の仏壇を取り壊せば、家族が偶像の支配から解放されると言っていました。
しかし順番を間違えてはならないのです。
人はまずはじめに、まことの神を信じることがなければ、ひとつの偶像を取りのけても、また新しい偶像を別のところから持ってくるのです。
イエス・キリストも同じことを語られました。
ある人がひとつの悪霊を追い出されても、その心にまことの神が入らずからっぽのままであれば、さらに悪い七つの霊を引き連れて戻ってくる、と。
まことの神を信じることがすべての始まりです。これに関しては、よく言われるような、「形から入る」ということはあり得ません。
拝まずにはいられないのがすべての人間の本質であれば、まずは、本当に拝まなければならないお方を見いだすことです。
そうしなければ、いつまでも偶像礼拝の連鎖は続いていくのです。
パウロはそのことを知っていました。だから彼は、アテネの町が偶像でいっぱいなのを見て心に憤りをおぼえても、その偶像には手を出しません。罪の根源は、その偶像そのものの中にあるのではなく、アテネの人々の心そのものにあることを知っていたからです。
むしろ彼は人々に対し、まるで偶像を容認しているかと思えるほどのソフトな言葉で語ります。
しかし容認ではありません。軌道修正です。あなたがたが拝まずにはいられないものは、偽物から本物へと軌道修正すべきだと語るのです。
天地を造られた方は、手でこしらえた宮などにお住みにならない。
またすべてを与えてくださるお方が、何か足りないものでもあるかのように、仕えられる必要などない。
アテネの人々よ、本物の神である、イエス・キリストだけをあなたの心に受け入れなさい、と。
結.
多くの人々は、死者の復活というあり得ない話を聞き、あざ笑いながら、その場を去って行きました。
今日、同じようにイエス・キリストを語っているクリスチャンもまた、人々から嘲りを受けることでしょう。
しかし語り続けるならば、神は必ずや、救われる人々をその町に与えてくださるのです。
数としては多くなくても、アテネで確かに救われた人がいました。デオヌシオ、ダマリスという個人名が、これが偽りでない証しです。
みなさんは、いかがですか。偶像を拝み続けるか、それともまことの神だけを拝むかという選択がいま、迫られていることがわかりますか。
まだクリスチャンでない方々は、いままで自分が拝んできたものは何だろうかと考えてみてください。
それは本当に私の心に平安を与えてくれただろうか。むしろ、いくら拝んでも、まるで砂地に注がれる水のようではなかったでしょうか。
しかしまことの神、イエス・キリストだけを拝むとき、私たちの心には決して取り去られることのない平安が与えられるのです。
私は高校三年生のときにキリストを信じ、しばらくはイエス・キリストを拝みながら、家の仏壇も拝むという生活を繰り返していました。
しかしいつのまにかやめてしまいました。しんどかったからです。
ふたつを同時に拝むことがしんどかったのではなく、すでに本物を手に入れたのに、偽物も拝まなければならないことがつらかったのです。
仏壇に飾られている、亡くなった祖母への愛が偽物だったという意味ではありません。
祖母への愛は、亡くなった人を仏として拝むことではなく、祖母の他にイエスを知らずに死んでいく家族がないようにという願いに変わりました。
そして死者の中からよみがえられたイエスによって、確信のないまま拝んでいた祖母への愛は、よみがえりの確信へと生まれ変わりました。
どうか、ひとり一人が今イエス・キリストを心にお迎えしてください。
ほんとうの神さまを拝む平安、ほんとうの救い主とともに生きる幸いを味わってください。