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2016.7.3「『さて』で始まる主の計画」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の導入で、「『さて』という言葉が、出来事が切れ目なく続いていくことを示す」例話として、「南京玉すだれ」を紹介しました。
「あ、さて、あ、さて、あ、さて、さて、さて、さて」と実演したのですが、家人からは「かんでるうえにすべってるよ」と言われました。ぐぬぬ怒り(ムカッ)
そう言えば、かの国民的アニメ『ドラゴンボール』でも、ナレーターの八奈見乗児さんが「あ、さて」で前回のあらすじを始めていましたね。
これも、物語が切れ目なく続いていくことを示すものなのでしょうか。
ちなみに『ボトムズ』次回予告での、銀河万丈さんのナレーションも、独特の言い回しが説教者には参考になります。
世代の違う人にはまったく興味のない話になってしまい、すみません。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』1章1節-2章10節 


序.
 かつて市役所の老人福祉課に勤めていた頃、新潟市内に何カ所かある老人憩いの家を巡回する仕事をしたことがありました。
ある憩いの家に行ったとき、たまたま大道芸人がそこを訪れており、私もその方の芸を眺めていました。
妙に耳に残るフレーズでして、「あ、さて、あ、さて、あ、さてさてさて、さては南京玉すだれ、・・・・」、そこからはおぼえておりませんが。
今日の聖書箇所で「さて、ヤコブといっしょに、・・・」という書き出しが目に入ったとき、あのときの「あ、さて」のフレーズを思い出しました。
どうでもいいことのように思われるかもしれませんが、玉すだれと出エジプト記がそれぞれ「さて」で始まるのには、じつは大きな意味があります。
「さて」という言葉は、今では日常会話でほとんど使うことがありませんが、本来は話を切れ目なく続けていくためのものなのだそうです。
そして例の南京玉すだれも、すだれを動かして竿にしたり、そこから旗だとか、橋だとか、さまざまなものに切れ目なく形を変えていく芸なので、
芸人の口上として「さて、さて、さて」と言うのがきまりのようです。
 この出エジプト記の最初に出てくる「さて」という言葉も、それとまったく同じです。
出エジプト記という書物がこれから新しく始まるのではない。
むしろこれから語られることは、今まで創世記を通して示されてきたことがこれからも続いていくということを、「さて」という言葉で表しています。
言い換えるならば、創世記で語られてきた預言や意味不明の出来事が、この出エジプト記において次々と明らかになっていくのです。
アブラハム、ヤコブ、イサク、ヨセフに与えられた経験やみことばが、この出エジプト記のできごとを通して、次々と現実のものになっていきます。
 ここで、私たちは創世記の中で、イスラエル人の先祖アブラハムに神が約束されたことばを開きたいと思います。
創世記15章13節から14節までをお読みします。「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。
あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる
」。1.
 ここで神がアブラハムに約束されていたことこそが、まさに今日の聖書箇所に先立つ、エジプトでの四百年の奴隷生活だったのです。
しかし、奴隷として苦しめられた四百年のあと、彼らは多くの財産をかかえながら、このカナンの地に帰ってくるのだ、と神は約束されました。
出エジプト記の、最初に始まる「さて」という言葉から、読者が決して忘れてはならないことがあります。
神のご計画は創世記から出エジプト記へ、そして出エジプト記から、私たち新約時代の救われた者たちの生き様へと繋がっているのです。
イスラエル人が受けなければならなかった、あらゆる苦しみ、それもすべて神はアブラハムに約束されていたことでした。
私たちが受けている、あらゆる困難も、本人にはどうしてなのかわからなくても、神の計画の中ではすでにゴールが定められているのです。
そして神が選んでくださった者たちが、敗北や妥協で終わることはありません。
どんなに苦しくても、耐え忍ぶならば、必ず勝利が待っているのです。使徒ペテロも、手紙の中でこう語っています。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、
何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。
それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです
。」
(第一ペテロ4:12,13)

時代や国によって、苦しみや困難の程度は違うかもしれません。しかし困難の中で、クリスチャンがとるべき方法は万国共通です。
すべてのものを造られた方が、すべての困難や苦しみさえも用いてくださって、私たちを祝福して、信仰の勝利へと導いてくださることを信じること。
私たちがどんなに弱く、小さな者であったとしても、そんなことは何の問題にもなりません。
パロの絶対的権力でさえも、まるで問題にならない、力と栄光を持っておられる、主なる神に、自分の人生をすべてゆだねること。
このお方にすべてをゆだねるとき、神は私たちを用いて、驚くべきみわざをなしてくださるのです。

2.
 パロが、生まれた赤ん坊が男なら殺してしまえと命じたとき、その悪魔の計画を頓挫させたのは、ヘブル人の助産婦たちでした。
ここでは、シフラとプアという二人の名前しか記されていませんが、その背後には、名前も知られていないたくさんの助産婦たちがいたはずです。
シフラとプアのふたりは助産婦がしらを務めていた二人であり、彼女たちの信仰を見て、他の助産婦たちも同じように行動したのです。
かしらといっても、助産婦のかしらなど、決して高い地位ではありませんし、パロから守ってくれる政治的後ろ盾があるわけでもありません。
パロに逆らって子どもたちの命を守ることは、代わりに自分の命を賭けなければ決してできないこと、しかし彼女たちはそれを行いました。
どんな小さな者たちであっても、彼女たちは地上の王パロよりも永遠の主、神を恐れました。そして豊かな祝福を受けたのです。
 助産婦だけではありません。もっと小さくて弱い者たちを、神は用いてくださいました。
わが子モーセを信仰によって守ろうとした彼の両親を。まだ幼い少女に過ぎないモーセの姉を。まるで無に等しい赤子であったモーセ自身を。
イスラエルを迫害する陣営に属するパロの娘もまた、神によって用いられ、彼女にモーセを養子として育てる思いを与えてくださいました。
彼女は自分がモーセを水の中から引き出した、と言いましたが、じつは彼女は引き出した側ではなく、引き出された側だったのです。
神が王女を最もふさわしいタイミングで水辺に導き、泣き叫ぶモーセを見た彼女の母性本能を引き出して、モーセを助けるようにされました。
王女だけではなく、神はモーセの姉の機転を引き出して、乳母を呼んでくると言って、母親張本人を堂々と引き合わせるのです。
モーセが大きくなるまでの数年間、両親のもとで、神を恐れ、神を敬うことを徹底的に教えられたのでしょう。
それは、その後エジプトの王宮で英才教育を受けるあいだも、同胞イスラエルに対する愛をモーセの中に保ち続ける力となりました。
神の知恵と、神のご計画は、何と測りがたいものでしょうか。私たちは、その神のご計画の中で、救われ、生かされているのです。

3.
 今、モーセたちと同じように神は私たちの信仰も引き出して、全世界に対する計画を果たされようとしておられます。
私たちが今この礼拝の席に座っていることは、決して偶然ではありません。そこには、神のご計画があるのです。
ある人は、礼拝に出席する時間が惜しいほどに、仕事や家事に追い立てられているということがあるかもしれません。
またある人は、神が導いてくださるということばが白々しく感じるほどに、心の中に大きな重圧を抱えているかもしれません。
しかし私たちがみな、この礼拝の場に導かれたこともまた、神がモーセのまわりで起こしてくださったのと同じように、神のご計画のひとつです。
すべてのことが組み合わされて、神さまの救いの計画が今も進められているのです。
私たちに必要なのは、ただ神に信頼することです。私のためにご自分の命をも捨ててくださったイエス・キリストに心から信頼することです。
この方が私の人生を導き、私に関わっているすべての人びとの心もまた導いてくださって、最善へと変えてくださることを信じましょう。
posted by 近 at 08:00 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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