私が高校時代を過ごした某敬和学園では、毎朝礼拝がありましたが、その日歌う讃美歌の番号が体育館の黒板に書かれていました。
あれから約30年・・・・先日、CBD(キリスト教の通販サイト)からのニュースレターに、あの若かりし頃の記憶を彷彿とさせるものが!
お値段100ドル。これを会堂の壁に掛ければ、讃美歌(新聖歌)もスムーズに開いてもらえるかもしれません。

しかしよく見ると、「Attendance Today(本日の出席)364」とか書いてあります。
賛美歌の番号じゃなくて、CS出席人数かよ!さすがアメリカ、スケールがでかい。
ただ「先週の出席」はわかりますが、「一年前の出席」ってどうなんでしょう。あまり意味がないような。
日本の教会はCSの出席人数が一桁でも決してめげません。ええ、めげませんとも。週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』12章21-36節
序.
二十年近く前のこと、私が四年間勤めた市役所を退職したときのことです。
退職は3月末日でしたが、退職の申し出はその半年前に上司に出しておりました。
しばらくして、課長から、「近さん、部長が部屋に来いってさ」と言われました。
その部長さんは、私も決済を取りに何度か伺ったことがありましたが、強面で、いわゆるこわい人でした。
「三、四年でやめるくらいだったら最初から入ってくるな」と怒鳴られるんじゃないかと、びくびくしながら、部長のところに向かいました。
すると穏やかにこう聞いてきました。「あんた牧師だか神父だかになるためにやめると聞いたけれど、牧師というのはどうやったらなれるんだ」。
私が「神学校という所に行きまして、三年間学びそれから試験を受けます」と答えると、「ふーん、がんばってな」と、ものの五分で終わりました。
ところがやめるまでの半年間、その部長さんがちょくちょく私を部屋に呼んでくださるのです。
「聖書は何が書いてあるのか」「教会は何をするところなのか」と、ひとつずつ聞いては、私もひとつずつ答えて、五分経ったら「もういいよ」と。
しかし三月の終わりになって、その方が初めて自分自身の話をしてくださいました。
「自分がまだ小さかった頃に、何ヶ月か重い病気にかかって、このまま死ぬのかな、と思うことがあった。
幸い病気は直り、それ以来大病も経験していないのだが、ふとあの時のことを思い出すことがあって、死というものを考えることがある。
でも役所の中でこんなことは人に言えないし、ただあんたはもうやめていく人間だから、付き合ってもらった。今までありがとう」。
その部長さんとは、その後聖書を贈り、今はお付き合いはないのですが、今日の聖書の箇所を学びながら、ふと思い出しました。
モーセがエジプト王パロに、イスラエルを奴隷から解き放つように語ったとき、パロは決してその言葉を聞こうとしませんでした。
もちろんその強面の部長さんと、かたくななパロが繋がったのではありません。ただ、共通点がありました。
それは、どちらも「死」ということに直面したときに、心が揺れたことです。1.
神は、パロの高慢な心を砕くために、エジプトに十の災いを与えました。
最初のさばきは、ナイル川が血に変わり、魚が死に絶えるもの。最初がこれですから、そのさばきの恐ろしさがわかるでしょう。
かえるや、ぶよ、あぶ、いなごの異常発生、人にも獣にもかかる重い皮膚病、巨大な雹がエジプトの穀物を全滅させる。
そのひとつひとつが筆舌に尽くしがたいほどの苦しみだったのですが、それでもパロはイスラエル人を解放しようとはしませんでした。
しかし最後、第十番目のさばきがエジプトに下ったとき、さすがのパロも、イスラエル人はいますぐこの国から出て行け、と叫んだのです。
それは何だったでしょうか。それがまさに「死」でした。
真夜中、エジプトの宮殿に始まり、奴隷たちの大部屋、牢獄、家畜小屋に至るまで、死の使いが訪れました。
疫病や、地震のたぐいではありません。神が送られた、死の使いによる、人知では説明のつかない、恐ろしいさばきです。
人も家畜も容赦なく、長子、つまり最初に生まれた子どもだけが、突然、心臓が止まり、死を迎える。
長子は、力と希望の象徴です。親は、自分が成し遂げられなかった期待を長子に託します。
あるいは自分が培ってきた技術や経験を長子に教え、人生が無意味でなかったことを占めそうとします。
しかし神のさばきは、その力と希望の象徴である長子をエジプトから奪い取ることでした。
パロは、九つの災害は耐えられても、王子の死の前には心が砕け散りました。
役所の中でもやり手で強面、そんな部長でも死を意識していたという部長との共通点を私は思い出しました。
しかし共通点という意味であれば、私たちすべてがそうなのです。
人間は弱い、とよく言われますが、同時に、人間ほど強い者はおりません。
どんな災害に遭っても、どんな困難に見舞われても、落ち込む心を切り替えて前へ進んでいく力を持っています。
それは神が与えてくださった賜物でもありますが、同時に神ではなく己の力に頼ろうとする罪の元凶でもあります。
しかしそんな人間が、どうしても乗り越えることのできないもの、それが死です。
死を避けて生き続けることはできず、死を振り切って逃げ出すこともできません。
人々は、死という言葉を人前で口にしないよう心がけ、また死に備えて保険をかけ、さらに命を延ばすために様々な健康法を求めます。
しかしそうしている間にも、死の瞬間は刻々と迫ってくるのです。
2.
しかし、人は例外なく死ななければならない者であったとしても、私たち聖書を手にしている者たちは、神に感謝することができます。
なぜなら、エジプトの国中を死が覆い尽くしたときにも、イスラエル人の家庭だけは、神からの死の使いが避けていったからです。
エジプト中で泣き叫ぶ声が響いたときにも、イスラエルの中には、人も家畜も、長子の命が取られることがありませんでした。
なぜでしょうか。それは、死の使いが過ぎ越していくためのしるしを、神はイスラエルに与えてくださっていたからです。
それが今日の聖書箇所に書かれてあるところです。21節から23節で、神はモーセを通してこう語られました。
あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。【主】がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、【主】はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。イスラエルの人々は、この言葉のとおり、小羊の血を家のかもいと門柱に塗りました。
そして死の使いは、彼らの家を過ぎ越していったのです。
これが、3500年経った今でもイスラエルで家族総出で行われている「過越の祭り」の起源です。
しかしこの過越の出来事が教えていることは、じつは祭のおきてではありません。
死ぬべき人間が、塗られた血によっていのちへと救い出される。
言うまでもなく、これは私たちの救い主イエス・キリストを指し示しているのです。
実際に、イエスが十字架にかけられたのは、この過越の祭の真っ最中のことでした。
そしてバプテスマのヨハネは、イエスを見たときにこう叫びました。「見よ、世の罪を取り除く、神の小羊」と。
イスラエル人たちは、家の柱に小羊の血を塗ることで、死から免れました。
しかしすべての人は、自分の心の柱に小羊の血を塗ることで、死から免れます。
イエス・キリストが十字架で流してくださった血は、自分の罪のためであると心に信じることで、永遠の死から免れるのです。
結.
死を恐れない人などいません。口では死など怖くないと言っていたとしても、いざ死を迎える時には、その人の本性というものが出ます。
それを恥じる必要は一切ありません。私たちは、どんなに強く見えたとしても、死に対しては、弱いどころか、まったく無力な者なのですから。
しかし、そんな私たちのために、イエス・キリストは身代わりとして死んでくださいました。
この方の死が自分の罪のためであったと信じる者は、この方と共によみがえり、死を恐れることはなくなるのです。
死は、子どもが考えるような人生ゲームのリセットスイッチ、あるいは大人が考えるような生まれ変わりへの出発ではありません。
地上からの消滅です。自分が今、この世界に存在しているたという事実がなくなってしまうことです。
そしてやがて魂はやがて神の前に立ち、生前の罪をさばかれ、永遠の滅びへと投げ込まれます。
それを免れる道はただひとつ、イエス・キリストを信じて、その十字架で流された血潮を自分の心に塗りつけることです。
私はイエス・キリストとともに十字架につけられた。
古い自分は死に、今まったく新しい自分が生まれ、この中によみがえったイエス・キリストがともに生きておられるのだ、と。
死に向かって歩んでいく一日一日は、イエスさまを知らない人にとっては恐れの連続です。
しかしイエス様によって変えられた人生においては、死に向かう一日一日さえ、この方に天で会えるという喜びと期待の連続に変わります。
どうかひとり一人が、このイエス・キリストを心に受け入れて、死からいのちへと移る永遠の喜びを味わってください。
