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2016.7.24「あの逃げ水へ進め」

こんにちは。あなたの心にキリストGO。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、当教会のI兄が、韓国で行われた聖会に参加してきました。韓国みやげとして愛餐会で配られたのが「高麗人参ゼリー」。
私の向かいに座っていたK兄がうまいうまいと言ってむしゃむしゃ食べていたので、私も勇気を出して口に入れました。
封を開けた瞬間から漂う独特の香り・・・口に入れれば言わずもがな。これを美味と賞賛したK兄を心から尊敬しました。
舌よりもむしろ胃そのものに訴えかけてくる味覚の洪水の中で、頭に思い浮かんできたメロディが「この道はいつか来た道」(北原白秋)。
ああ そうだよ。かの北海道名物、ジンギスカンキャラメルを思い出しました。
「激烈な味のゆえに、たいていのいやなことは忘れられます」というあのキャッチコピーが、この高麗人参ゼリーにもきっと書いてあるのでしょう。
ハングルなので読めませんが。
とりあえず、教会にお土産を買ってきてくれたI兄の心遣いに感謝。そのうち、礼拝で証しをしていただきましょう。
週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』14章1-31節 


序.
 聖書になじみがない方であっても、今日の物語だけは知っている、ということがあるのではないでしょうか。
ここにはイスラエルとエジプトとの間の、手に汗握る攻防のシーンが十分に描かれております。
総勢200万人のイスラエルの民が、男も女も、老いも若きも、人も家畜も、行列を組み、自由の身分となってエジプトを出発しました。
しかし一度はイスラエルを出て行かせたエジプト王パロは、やはり心を翻して、エジプトの精鋭を引き連れて彼らを連れ戻そうと追いかけます。
前は紅海、後ろはエジプト軍、追い詰められた絶体絶命のイスラエル二百万人。
しかしモーセが杖を高く掲げると、なんと紅海が割れて、乾いた海底の道をイスラエルは歩んでいく。
エジプト軍もそれを追いかけるが、神が彼らを混乱させ、追いつくことができない。
やがてエジプト軍は気づく。我々がイスラエルを攻めているのではなく、我々はイスラエルの神、主から攻められている側なのだ、と。
しかし逃げることもままならないなか、モーセが手を差し伸べると、海の壁が崩れ、水がエジプト軍を襲い、彼らは全滅してしまったのです。

 まず、多くの人が思うのは、紅海の水がせき止められて道ができるなど、あるわけがない、これは神話にすぎないということでしょう。
実際に、歴史家たちはこう言います。もし本当にこんな出来事が起きたのなら、エジプトの資料に残っているはずだ、と。
しかし、誇り高いエジプト人が、世界最強の軍隊が丸腰の、しかも半数が女子どもの民族に負けたなど、歴史書に書くはずもありません。
むしろ現代の地質学が明らかにしたのは、この紅海は、地震の原因である地球のプレートの境目にあたるところだということでした。
つまり地球の裂け目だというのです。事実、4年前の2012年、紅海で海底火山が爆発して新しい島が生まれています
もちろん海底火山の爆発が水をせきとめたのだとか言いたいのではありません。
しかしこの自然をすべて作られた神は、私たちの想像を超えたことをおできになるお方です。
科学はそれに追いつくどころか、無限大の神に対して人間の知恵は愚かで矮小なことを痛感するのみです。1.
 そして無限大の神は、モーセを通してイスラエルの人々にこう命じられました。お前たちは一切、手を出すな、と。
はじめからおわりまで、エジプト軍との戦いを設けられたのも神であり、それを終わらせたのもまた神ご自身。
あなたがたは、ただ黙ってそれを見ていなさいと言われたのです。14節では、モーセが神を代弁してこう語っています。
「【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」。
でも黙っていられないのが人間です。前には、真夜中の嵐の中、底も見通せないほどの黒々とした海。
そして後ろから迫るのは、今にも襲いかかろうとしているエジプトの軍馬、槍、戦車。民はパニックです。黙ってなどいられません。
こんなところでエジプト軍に殺されるくらいならば、エジプトで奴隷として死んだほうがまだましだ。なぜこんなところまで連れてきたんだ。
民は口からアワを飛ばしてモーセに詰め寄る。
しかしモーセは、彼らのクレームに答えることもなく、ただ黙って神の次の一手を待っていたはず。
なんだこいつは、なんで黙っているんだ。民はモーセにこう言ったに違いありません。
「おい、黙ってないで、なんとか申せ(モーセ)」(ここ、笑うところ)。しかし民は黙って、知るべきでした。
今人々に追い迫っているエジプト軍でさえ、神のシナリオの中で踊らされている役者、というよりも舞台装置にすぎなかったのです。
神がイスラエルの民をあえて北上させて、エジプトという狂犬の鼻先に肉をぶらさげるがごとく、待機させたのも、神のご計画でした。
イスラエルの神だけが唯一のまことの神。ほかにはいない。
全世界にそれを示すために、あえてこの絶望的な状況を備えられたのです。
だから私たちは、どんな絶望的な状況にあっても、決して失望することはありません。
ただ、神が私たちの代わりに戦われる姿を、黙って見つめることです。神さまから行けと言われるまでは、ただ黙って待つことです。

2.
 しかしおもしろいのは、次に神がモーセに与えた言葉です。15節をご覧ください。
「【主】はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え」。
私がモーセの立場だったら、ええっ、そりゃないでしょと思いますね。
「なぜ民に向かって叫ぶのか」ならわかります。しかし、「なぜわたしに向かって叫ぶのか」って、苦難の時に神に叫ぶのが、信仰でしょ?
しかし本当に、聖書はおもしろい。わくわくします。「なぜわたしに向かって叫ぶのか」。
この言葉の意味するところは、モーセが見ているようで、じつは見えていないものを、しかし神は確かに見ておられた、ということです。
モーセの目の前には、確かに黒々とした海が広がっていました。足を踏み入れたが最後、たちどころに押し流されてしまうような濁流です。
しかし神はこう言われたのです。それはあなたの目にはそこに見えていても、わたしの目にはすでに取りのけられているものなのだ。
さあ、あなたの前にある海に向かって、イスラエル人を前進させよ。
濁流があなたがたの足を絡めようと手ぐすね引いて待っているのが見えても、あなたがたが足を踏み入れるとき、それはもうそこにはない、と。

 信仰というのは、石橋がそこに見えるから渡っていくことではありません。
その意味で、多くの人は信仰を勘違いしています。その宗教の教えに従っていれば、助けが与えられて、安全に歩んでいける、と。
しかし信仰を持っている、と言っていても、私たち人の目には、石橋どころか、泥でできた橋さえかかっていない、過酷な現実しか見えません。
保証は、目に見える現実の中にはなく、ただ神の約束以外にありません。
しかし何もない空間に一歩踏み出すとき、私たちの足が空を切るその一瞬前に、石橋よりも堅固な橋がそこにできているのに気づくのです。
それが、見えないものに目を留める、という、聖書が教えている信仰です。
現実という壁が見えても、そこで立ち止まってはならない。そこにあなたが一歩踏み出すとき、それはもうそこにはない。
前へ進め、恐れてはならない、ただ前へ進め、と。
 先日、とても暑い日、車で高速道路を走っていました。直線道路のはるか先に、いわゆる「逃げ水」という現象が見えました。
はるか先に水たまりがあり、その先の道路も見えないほどにかすんでいます。でも近づくと、それはない。幻です。
もし「逃げ水」を知らなかったら、道がないと騒ぎだし、路肩に止めて道路公団に電話していたかもしれない自分の姿を想像しました。
しかし実際、信仰の世界にも「逃げ水」があることを知らないがゆえに、現実の前ですぐに立ち止まってしまうこともあるのです。

結.
 確かに私たち信仰者の人生には、ひたすら神の声を待つ時と、立ち上がって前へ足を踏み出すべき時があります。
どうやってその時を見分けるのでしょうか。それが、私たちに与えられている、神の言葉です。
もちろん今朝のディボーションで「立て」というみことばが出たから、今日がその時ねということではありません。それではまるで占いです。
日頃から、着実にみことばを心に蓄えていく生活を習慣にしていくならば、折にかなって神がふさわしいみことばを思い起こさせてくださいます。
それが、みことばと共に生きて、みことばと共に歩む、私たちの人生なのです。
 「アメイジング・グレイス」という有名な讃美歌の中に、こういうことばがあります。「恵みは、我が身の恐れを消し」。
恵みとは何でしょうか。私は完全に無力な者だが、神が私のような者のためにすべてを備えてくださっている、ということです。
その恵みを心の中にかたく縫い付けてください。そのときに、恐れはなくなります。
恵みと恐れは、光と闇です。同じ心の中で両者は共存することができません。
私たちの心が恐れに支配されるとき、恵みを忘れてしまいます。しかし恵みを思い起こすならば、逆に恐れのほうがしぼんでいきます。
泥沼に首まで浸かっているような困難の中にあるとき、イエス・キリストが無力な私のためにいのちを捨ててくださった恵みを思い出してください。
泥水が首どころか額にまで来て目が開けられないような状態にあっても、恵みを忘れないでください。
神が必ず、あなたの髪の毛を上から掴んででも、引き上げてくださいます。
 今にもエジプトの馬のひづめが背中に押しかかるような状況に、イスラエルの民は絶望しました。
しかし絶望の中で、自分では何もできないことを骨の髄まで知ったからこそ、彼らは神の恵みを、それ以降も心に刻みつけていきました。
私たち信仰者も同じです。私たちはご利益を求めてイエス・キリストを信じたのではありません。
自分自身が無力であることを知ったからこそ、イエス・キリストを信じたのです。
私たちは無力です。イスラエルのようにいのちに関わるようなレベルではない、小さなことにさえ、不平不満を他人にぶつけるような者たちです。
そして不平不満をだだ漏らしたところで何も事態は好転しないのに、ほかに何もできないがゆえに、それを繰り返します。
しかし無力であることを認めて、不平不満を止めましょう。
そして、私たちの身代わりとなって死に、死に勝利してよみがえったイエスを信じることができた恵みに感謝しましょう。
そのときに、今まで見えなかったものが見えているはずです。

 これが噂のジンギスカンキャラメル。Amazonって、こんなものまで取り扱っているんですね。
posted by 近 at 09:24 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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