こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
つい昨日のことですが、ある牧師の葬儀に参列してきました。まだ40歳。これからという年齢です。
格別親しかったということではありませんが、教会のある町が私の母の生まれ故郷でもあり、いつかじっくり話したいと思っていました。
こんなかたちで、昨年亡くなった母の故郷を35年ぶりに訪問することになろうとは考えてもいませんでした。
私に何かできることはなかったのだろうか。おそらく参列した方々みなが、そう思いながらあの場に駆けつけたのでしょう。
しかしそれでも、天国で再会できるという希望が、私たちには残されています。残されたご遺族と教会の上に、天来の慰めを求めます。
週報はこちらです。
聖書箇所 『出エジプト記』16章1-36節
メッセージの録画ボタンを押し忘れました。撮り直す気力もありませんので、今週はご勘弁ください。
序.
先日亡くなられた、永六輔さんが、夫婦の成長について語っていたこんな言葉がありました。
結婚して十年間は、愛の夫婦。次の十年間は、努力の夫婦。さらに次の十年間は、忍耐の夫婦。ここまでで三十年ですね。
そして忍耐の次の十年間は、あきらめの夫婦。しかしその後の十年間、そこでようやく、感謝の夫婦になれる、と。
この感謝の十年間が、いつまでも続いていけば最高なのでしょうが、およそ人間のもつ感情の中で、感謝ほど長く続かないものはありません。
イスラエルの民の歴史を挙げずとも、自らの人生を顧みてみればそのことがわかりますが、あえて聖書の実例を見てみましょう。
神が紅海をふたつに割って、イスラエルの民二百万を全員救い出し、エジプト軍を全滅させた出来事を先週学びました。
しかしそのわずか一ヶ月後には、彼らは神への感謝を忘れ、神とモーセにぶうぶう不平を漏らしている姿が、ここに描かれています。
感謝することは難しくありませんが、その間者を保ち続けることはなんと難しいことでしょうか。
一方で、人間がもっともたやすく持ってしまう負の感情は、不信です。
感謝が心の中から忘れられると、不信がそのすき間に入り込んできます。
イスラエル人は、エジプトで自分たちがどれだけ惨めな状態で暮らしていたかをすっかり忘れ、昔のほうが幸せだったと言い始めました。
そして自分たちを奴隷から解放してくださった神を、あろうことか自分たちを荒野で殺すためにここまで連れてきたとまで叫んだのです。1.
これは、いかに私たち人間が恵みを忘れ、感謝を捨ててしまうかの見本でもあります。
しかし、イスラエル人に対しても、現代人に対しても、神がいつもそこで与えてくださるのは、「約束」です。
ここで私たちは聖書の「間(ま)」に注意しましょう。神は民のつぶやきを聞いて、すぐに「うずらとマナ」を与えるとは言いません。
「パンが天から与えられるようにする」という、あり得ない約束を与えられました。
神は、すぐに答えを与えてくださるのではなくて、人間が神の約束を聞いて、それをどのように受け止めるかをご覧になっておられるのです。
今日、私たちの社会はすぐに結果を求めます。信仰に生きようとしている人々でさえ、すぐに結果を得ようとします。
しかし、神が求めておられるのは、結果をすぐに求めようとするスピード人間ではありません。
結果はどうであろうとも、自分にできることは神の約束にしがみつくことだけだという人を、神は求めておられます。
神のなさろうとしていることは、人間にはわからないのです。永遠無限の神を、どうして有限の人間が理解することができましょうか。
しかし、神が圧倒的に巨大な方であるにもかかわらず、自分のような虫けらのような者に目をとめて最善をなしてくださる!
この圧倒的な恵みに目を留め続けるときに、そこには決して途絶えることのない、神への感謝が生まれるのです。
毎週、礼拝説教の後、当番の教会員が感謝祈祷といって、人々の前でお祈りをするという時間があります。
ある人々にとっては苦痛と緊張でしょうが、その祈りの場でいつも感銘を受けることがあります。
それは、教会員が、ただ父なる神と呼びかけるだけでなく、永遠無限のお方として信じていることが、祈りを通して伝わってくる、ということです。
そのような祈りを自分のものにしている者は、決して感謝を忘れることはありません。
人に信頼する者は恥を見るが、神に感謝する者は決して恥を見ることがない、と聖書は約束しています。
「おかげさまで」と人に感謝することも結構なことです。しかし人の心ほど、移ろいやすいものはありません。
だからこそ、私たちが感謝を向けるべきは、私をいつも包んで愛し尽くしてくださる、永遠無限の、まことの神でなければなりません。
2.
神は、夕方にはうずらの大群をイスラエル二百万の上に落として、その肉を与えてくださいました。
そして朝には、マナという不思議な食べ物を地面の上にいつも備えてくださいました。
うずらはともかくとして、マナとは何でしょうか。ある種の昆虫の分泌物かもしれないと説明する科学者もいますが、あまり意味はありません。
なぜならば、平日は太陽の光をあびて溶けたり、時間が経つと腐ってしまうのに、安息日の前の日にとったものだけは二日間もつ。
こんな食べ物は、神の奇跡以外にはどうやっても説明することなど不可能だからです。
奇跡は奇跡として受け止めましょう。
大切なのは、このうずらとマナを、神はイスラエルが40年間荒野で放浪し続けたあいだ、途絶えることなく与えてくださったことです。
それは、神のテストでした。イスラエルの人々が、神の命令にしっかりと従うかどうかを、神は見ておられました。
マナは、その日、自分の家族が食べる分だけを集めなければならない、と神は命じられました。
また安息日、つまりユダヤ教で土曜日、キリスト教で日曜日、その日は仕事を休む日であって、マナを取ってはならない、とも命じられました。
このマナこそ、今日の私たちにとって、聖書がその代わりなのです。
人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでるひとつひとつの言葉で生きる、と聖書には書いてあります。
今日、衣食住のすべてが必要なだけ与えられていても、もっともっとと欲望のままに生きる人々で満ちています。
それは、パンだけでは満たされないものがあるからです。
人間が神から作られたものである以上、私たちは、神のことばを心の中で求めているのです。
一週間に一回、この礼拝で神のことばを聞いただけで一週間を乗り切れるほど、私たちの心は丈夫ではありません。
毎日、私たちは聖書を開き、そこに書かれているみことばを通して、霊の糧をいただかなければなりません。
それが敬和学園高校で、毎朝、礼拝の時間を何よりも大切にしていることの意味です。
来年は、マルチン・ルターの宗教改革からちょうど500年目の年ですが、ルターは忙しければ忙しいほど、神のことばを聞くことを求めました。
忙しいとは時間に追われることです。時間に追いかけられているとき、私たちの決断もまた独りよがりになりやすい。
しかし神のことばをまず自分の心に貯えていくときに、私たちは、その神のことばを基準として、決断をしていきます。
この神のことばを基準とするときに、たとえそれがどんな結果を生んだとしても、後悔はありません。
神は私たちの心よりもはるかに大きく、神のことばは私たちの人生経験よりもはるかに重いからです。
結.
私たちは願っても自分のものにならないと争いを起こします。
願っているものを手に入れても、すぐに飽きて、また別のものがほしくなります。
それは、心の中に、神にしか埋められないすき間があるからです。
しかし神を求めることなど恥ずかしいというプライドもあって、偽物でそのすき間を埋め続けているのです。
そんな私たちに対して、イエス・キリストはこう言われました。
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べましたが、死にました。
しかしわたしは、天から下ってきたいのちのパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きるのです」と。
マナが聖書のことばであると、さきほど言いました。では聖書のことばは、私たちに何を教えているのでしょうか。
それは、イエス・キリストを信じる者は、どんなことがあっても、飢えることも渇くこともなく、永遠のいのちを持つ、ということです。
このキリストを、心に受け入れるとき、私たちの人生は、いたちごっこのように飢えと渇きを満たしていこうとするものから、生まれ変わります。
自分の利益のためにではなく、人々の幸せのために。人々から感謝されるためにではなく、神に感謝し続けるために。
自分の人生を変えたいと願う人はいませんか。その方のために、祈りたいと思います。
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2016.7.31「感謝は誰がために」
posted by 近 at 17:28
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