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2016.8.7「十戒という名の保証書」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
四年に一度の祭典、オリンピックが始まりました。実力は勝っているのに、銀メダルで終わり涙をのむ選手もいるでしょう。
ある人が「銀メダルは恨メダル」と言いました。確かに、「金」を「忄(りっしんべん)」に変えるとそうなります。
国家の看板を背負って大会に出場している場合、惜敗したときには恨みが残ることもあるでしょう。
しかし元女子柔道の谷亮子氏が、「という文字にわずかな「」を加えれば、金よりもい字になる」と言ったそうです。
」という字も、わずかな「」を加えることができれば、どんなよりもいものになるかもしれません。
「わずかなテン」とは何でしょう。努力か、それとも心構えか。解釈と適用はお任せします。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』20章1-17節 


序.
 今日の聖書の箇所は、十の戒めと書いて「十戒」と言われます。
たしかに、安息日と、両親への尊敬の二つを除き、どれも「○○してはならない」の連続ですので、十戒という表現は間違っていません。
しかし、十戒は決してただの禁止命令ではなく、それは、神と人とのあいだに交わされた契約書と言ってよいでしょう。
神様は、イスラエル人に十戒を与え、この十の戒めに集約された神のおきてを守るなら、イスラエルに救いを与えると約束してくださいました。
それが旧約聖書39巻にちりばめられた律法であり、その律法が十の命令に集約されているのが、この十戒なのです。

 十戒は、イスラエルだけではなく、私たち信仰者すべてに向けられた、神の契約書です。
最初の第一の戒めから第四の戒めまでは、私たち人間が、神さまに対してどう向き合うべきかが、四つの命令で教えられています。
そして第五の戒めから最後の第十の戒めまでは、今度は私たちがこのまわりの人々とどう向き合うべきかが教えられています。
まず神との関係、それから人との関係。この順番が大切なのです。
この背後の十字架の縦棒が神との関係、横棒が人との関係というのはよく聞く言葉ですが、必ず縦棒のほうが長いのです。
まず神との関係が確かなものとされて、そこではじめて私たちは、人々に流される者ではなくて、しっかりと地面に立つ者になれます。
「自分を変える」とか「私が変わればまわりが変わる」とかよく言いますが、そのために必要なのは、神との関係を変えることです。
かつて、ある政党のキャッチコピーに「生活が第一」というのがありました。あるクリスチャンも、礼拝よりも生活が大事、と言います。
しかし礼拝よりも大事な生活などありません。むしろ礼拝と生活を分けてしまっていることが、そもそもの過ちです。1.
 第一戒から第四戒まで、言葉はひとつひとつ違っていますが、そこに流れている精神はひとつです。
神と、神に関わるすべての生活要素を、あなたの優先順位の一番に持って来なさい、ということなのです。
第一戒、「わたしのほかに、ほかのものを神としてはならない」。
聖書にあらわされた、三位一体の神だけが唯一の神であって、あとは人間が造り出した偽りの神です。
第二戒、「偶像を造ること、偶像を拝むこと、偶像に仕えること、ただひとりの神の栄光を、偶像に与えてはならない」。
亡くなった親族を愛し続けることと、亡くなった親族を仏として拝むことは、まったく別のことです。
クリスチャンは先祖を大事にしないと批判する人がいますが、先祖を大事に思うがゆえに、偶像に祭り上げるような失礼を犯さないのです。
第三戒、「主の御名を、みだりに唱えてはならない」。これは、主の御名を、この上もなく大切に、きよいものとして扱う、ということです。
人は、自分の身勝手な行動を正当づけるために、神の名前を利用します。しかし、それは神の御名を汚すことです。
そして第四戒、「神がすべての働きを休まれた安息日を、あなた自身もこの上もなく大切な日として、共に休みなさい」。
本来の安息日は、一週間の最後の日、土曜日でした。
しかし私たちクリスチャンは、イエスが復活された日曜日、一週間の最初の日を安息日としています。
大切なのは、神さまが人間のために休みとして設けられた日を、自分の仕事や予定にあわせてはならない、ということです。
私たちの生活は、神さまの栄光を表すために、与えられたものです。
今この瞬間も、神が私たちを支えてくださっていることを忘れてはなりません。

2.
 後半の六つの戒めは、神との関係を土台として、まわりの人々にも向き合っていくことを教えています。
第五戒は、「してはならない」ではなく、「あなたの父と母を敬え」という積極的な勧めに変えられています。
たしかに今日、親子の関係が崩れています。しかしまことの父性と母性は、私たちが神との関係を確かにしていくときに回復します。
子どもは、誰に命じられなくても、自然と父母の姿を真似るものです。父、母と呼ばれる者たちは、まず自分自身が神に向き合いましょう。
これは父母を敬えという命令であると共に、さきに父母に対して、子どもたちを敬い、主にあって育てていくことを前提としています。
第六戒、「殺してはならない」。当たり前すぎる命令です。しかし神が造られた、人のいのちをかけがえのないものとして尊重せよ、ということです。
神が造られたものだからこそ、人のいのちは尊いのです。決して偶然生まれたものではなく、自然にできたものでもありません。
仮にある子どもがまわりから、望まれない子と言われ続けたとしても、神は、そのいのちを望んでお造りになったのです。
自分のいのちが尊いように、他の人々のいのちもまた尊いということを伝えなければなりません。
第七戒、「姦淫してはならない」。男女二人が一人となる、結婚生活に留まり、これを敬いなさい、ということです。
「姦淫してはならない」は、浮気をしてはならない、という単純なことではないのです。結婚のきよさを人の都合で貶めてはならないのです。
第八戒、「盗んではならない」。これは、イエス・キリストの次の言葉とあわせて覚えるべきでしょう。
「だから、神の国とその義をまず求めなさい。そうすれば、これらのものをすべて与えられます」。
これらのものとは、生活に必要なすべてのものです。神に信頼しましょう。必要は備えられ、人のものを盗む誘惑は自分から逃げていきます。
第九戒、「偽りの証言をしてはならない」。「うそをついてはならない」と意訳できます。
一つの嘘が次の嘘を生み、やがては他人を貶めて自分を守らざるを得ないところにまで行き着きます。
人々との関係を築くために最も大切なことは、誠実を尽くすということです。それは古代も現代も、決して変わることはありません。

3.
 そして第十戒、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」。第八戒の「盗んではならない」に似ていますが、もっと深刻なものです。
なぜなら、第八戒は、盗みという行動を禁じていますが、この第十戒は、欲しがってはならない、という心の欲望を禁じているからです。
しかし、ここで考えてほしいのです。私たちは、行動を押さえることはできても、心の中まで押さえることはできません。
神が、この戒めを一番最後に持って来たのはなぜでしょうか。
たとえ他の戒めを守ることができても、この第十戒を守ることができる者は、一人もいないのです。

 十戒が、救いを受けるための契約書であるということを最初に言いました。
しかし十戒は、最後の最後に、どんな人も守ることのできないような戒めを、私たちの前に持ってくるのです。
これが契約書と言えるのでしょうか。はじめから守ることができないのがわかっている、救いの契約書に意味があるのでしょうか。
じつは、これこそが、十戒の目的です。十戒に集約される律法を完全に行うことができる者は、ひとりもいないということを教えるためです。
しかし、だれも律法を完全に行うことができないのであれば、どうやったら救われることができるだろうか。
その答えを明らかにしてくださったのが、救い主イエス・キリストなのです。
イエス・キリストは、二千年前にユダヤ人にこう言われました。「私は律法を廃棄するためにではなくて、成就するために来たのです」と。
この言葉の意味は、人間にはクリアできない神のテストを、神のひとり子であるイエスが、私たちの代わりにクリアしてくださったということです。
たとえが悪いのですが、イエス様が替え玉となって、落第生の私の代わりに神の試験に臨んで、見事百点満点で合格してくださった。
現実では替え玉受験は犯罪ですが、これが聖書にある、「私たちはイエス・キリストを信じることで、義と認められる」ということなのです。
私たちには到底合格できない神のテストを、イエス様が代わりに引き受けてくださいました。
それを信じる者は、イエス様のゆえに、罪のさばきをまぬがれ、永遠のいのちをいただけるのです。

結.
 十戒は、私たちが自分の努力ではどうやっても救われることはできないのだということを教えています。
しかしその無力感に砕かれなければ、決してイエス・キリストの十字架はわかりません。
イエスを信じるとは、罪の力の前にお手上げの状態であることを認めて、イエス・キリストに泣きつくことです。
そしてこの方が、私の代わりにすべての律法の要求を満たしてくださったことを、感謝をもって信じることです。
だから私たちは、自分がどんなに欠けた者であったとしても、何も恥じることなく、永遠のいのちを確信することができます。
そして救われた私たちにとって、十戒はもはや重荷ではありません。
かつては決して実行できない要求書だった十戒は、クリスチャンにとっては、キリストが共にいてくださるからできる、という保証書になったのです。
神に向き合う四つの命令、人に向き合う六つの命令、キリストにあってこれらの十の命令を心に刻みつけて、歩んでいきましょう。
posted by 近 at 17:13 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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