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2016.8.14「あのモーセという者」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
クリスチャン用語、というわけではありませんが、8月15日を「敗戦記念日」と言い換えることがあります。
私も以前はそう呼んでいたのですが、では「戦勝」だったらよかったのか、と言われ(そんな意図はまったくないのですが)、
この言葉だけが一人歩きして誤解を与えることがあると気づき、今では普通に「終戦記念日」と呼んでいます。
しかしクリスチャンにとって、8月15日は教会自身が戦争協力を推し進めた罪への悔い改めを祈念する日でなければなりません。
「終戦記念日」もまた、そのニュアンスを伝えるのには不十分なんですよね。ほかによい表現がないかと探しているところです。
もし何かアイディアがあればコメント欄へお願いします。週報はこちらです。

聖書箇所 『出エジプト記』32章1-35節 


序.
 1節、「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。
私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」。
私は、この民の言葉から、どうしても思い出してしまう、イヤな経験があります。
私の入学した中学校は、時代の影響もあったのでしょうが、決して雰囲気の良い学校ではありませんでした。
中学一年生の秋くらいのことと記憶していますが、私が教室の入口付近の掃除をしていたときのことです。
女子のクラスメイトから「近って人、そこどいて」と言われました。
入学してもう何ヶ月も経っているのに、クラスメイトから「近って人」と言われたことは、私にとってたいへんなショックなことでした。
 私の通っていた中学校は、同じ町にある四つの小学校から入学してきます。
後から知りましたが、最も大きい小学校出身の人たちは、他の小学校出身者をバカにしていて、私たちはいじめの対象にされていたのです。
しかしその後でもっとショックを受けたのは、その標的から外れるために、同じ学校出身の人たちがお互いに無視したり、いじめに加わる姿でした。
中学校に入るまでは親しくあだ名で呼び合っていたかつてのクラスメイトから、「近って言う人」と呼ばれるようなこともありました。
それでも二年生に上がると、さすがにどの小学校の出身かはどうでもよくなり、私もいじめられなくなりました。
しかしそのとき人間不信になりかけた苦い傷跡は、三十年経っても、まだしっかり残っていたようです。
指導者モーセをまるでよそ者のように「あのモーセという者」と呼ぶ民の言葉は、私にとって、言葉以上の痛みを与えるものでした。1.
 じつの弟であるモーセを、「私たちをここまで連れてきたあのモーセという人」と言われたアロンは、いったいどんな気持ちだったのでしょうか。
そして民は「私たちに先立っていく神を造ってください」と、明らかに十戒に違反する願い、
すなわち、あなたがたはどんな偶像をも造って、これを拝んではならないという神の命令への反逆を聞いたとき、アロンは何を考えたでしょうか。
それについて、聖書はただ事実だけを伝えています。
それは、他のだれであろう、モーセの兄であり、大祭司であるアロンが、率先して民から金の装飾品を集め、偶像を造って拝ませたことです。
多くの学者は、なぜアロンがこれを許したのか、いや許したどころか自分からこれを命じたのか、首をかしげます。
しかし、これこそが、私たちそのものの姿です。
すなわち、おおぜいの中で生きていかなければならない、ひとりとしての人間の抱えている弱さです。
私の一番知られたくない過去を言いふらしていたのは、小学生の頃は日が暮れるまでボールを追いかけて一緒に遊んでいた私の友でした。
しかしそれを責める気にはなれませんでした。彼が、まわりの中で自分を守るのに必死であったことをよく知っていたからです。
アロンも同じではなかったでしょうか。偶像を造ることは、神が憎まれることだと、彼はわかっていたでしょう。
しかし彼は、「弟モーセが山から下りてくるのを待とう」と言えませんでした。
「神は目に見えないお方で、偶像を造ることを憎まれる」と大祭司として宣言することもできませんでした。
彼は、モーセと神が話している山の上のほうではなく、民たちが目を血走らせて叫んでいる山の下のほうばかりを見ていました。
彼らの姿をはるか上から見下ろしている神の御顔を仰ぐよりも、アロンは民の顔を伺う、安易な道を選んでしまいました。
もし民の願いに逆らえば、今度は民の反逆の標的はモーセから自分になります。
だから彼は自分を納得させました。金の子牛を作らせて、「これがあなたがたをエジプトから連れ上ったイスラエルの神だ」と宣言しました。

2.
 しかし私たちはアロンの姿を笑うことも、批判することもできません。
人の目を気にして、罪を知りながら妥協し、ぼかしながら生きている私たちが、彼のようでないと、どうして言えるでしょうか。
先の戦争で、日本のキリスト教会は、会堂に天皇の写真、いわゆる御真影を飾り、皇居遙拝、戦勝祈願を礼拝式次第に加えていました。
それは十戒への反逆であると、はじめは多くのクリスチャンが罪意識を持っていました。しかし続けていくうちに、罪悪感が薄れてしまったのです。
私たちがアロンのようでないと、そして70年前のクリスチャンたちのようでない、とどうして言えるでしょうか。
私たち人間は、弱いものです。弱いがゆえに、罪悪感を無意識に薄めて、心のバランスを保つという不幸な機能が心に備わっているのです。
だから、私たちは正義、平和、公正といったものを判断する基準を、自分自身の中に置いてはなりません。
では何に基準を置くべきでしょうか。私たちがどんな人間かに関わりなく、決して変わることのない聖書に基準を置くのです。
聖書は、神の言葉です。私たちが自分の人生経験の中から足したりひいたりする必要のない、完全なる模範がそこには記されています。
私は中学生の経験から、大勢の中で目立ちすぎてはいけないという教訓を学びました。
クラスの中で上のほうを目指すのも、下のほうを漂うのもいけない、目立たないように生きる。
今となっては笑われるかもしれませんが、実際のところ、「出る杭は打たれる」とあるように、そう信じている人は多いのです。
これは極端な例ですが、多かれ少なかれ、私たちは自分が経験してきたことを基準にして、まわりとの関係の作り方を学んでいきます。
そして、長く生きれば生きるほど、それに従って歩んできたからこそ、何とかやってこられたのだと誤解してしまうのです。
本当は、私たちの人生を導いてくださっている神さまの見えない助けによるのですが、それを感謝することはほとんどありません。
実際には、私たちの経験から導かれた基準に、変わらない確かなことなど何一つないのです。
それに対して、聖書には、私たちが足したり引いたりするものは何一つありません。
それは数千年間、決して変わることなく、人々を励まし、慰め、生かしてきた神のことばです。
だから私たちの手に余るようなことが起こるこの人生において、私たちはこの聖書にのみ、信頼をおいて歩むことができるのです。

3.
 最後に、私たちはアロンの弱さだけではなく、モーセの強さに対しても、みことばから学んでいきましょう。
イスラエルの破滅的な罪の中で、モーセは二度にわたって、民のためにいのちを捨てて、神の怒りに対して弁護をしています。
神は、偶像礼拝を何よりも忌み嫌われます。そしてこんな民は滅ぼし、モーセの子孫を新たな神の民にするとさえ言われました。
しかしモーセは、この提案を即座にしりぞけたのです。それは民のためでも自分のためでもなく、神の栄光のためでした。
モーセは言いました。もしここで神が民を滅ぼせば、エジプト人をはじめ、イスラエルに敵対する民族は、神をあざけるでしょう。
イスラエルの神は、あの民を約束の地へ導くことができなかったので、荒野で滅ぼしてしまったのだ、と異邦人は神を笑いものにするでしょう。
決して神の御名と栄光が辱められてはならないのです、と。
そしてこのモーセのことばを聞いて、神はさばきを思い直された、とあります。
しかし神はすべての創造主であり、全地全能の方です。モーセの言葉に影響されて心変わりをしたのだ、と決して受け止めてはなりません。
ここで語られていることは、神がモーセに期待していたことばと行動を、モーセはことごとく語り、実行したということなのです。
モーセの信仰をためした、と言い換えてもよいでしょう。そしてモーセは、犠牲を厭わない愛をもって、そのテストに合格しました。
山を下りたモーセが、三千人の民を剣で殺したくだりは、私たちに恐れとつまずきを与えるかもしれません。
しかし、神ならぬものを神としてあがめる偶像礼拝は、それほどまでに大きな罪なのです。
そして、たとえ家族、隣人、友人に手をかけてでも、罪を罪として自覚し、神に従う者こそが、神の戦いには必要なのだと教えています。
偶像を打ち壊して、再び山に登ったモーセは、私の名前をいのちの書から削ってでも、どうか民の罪をお赦しください、と神に願いました。
このモーセの姿は、イエス・キリストが、すべての人間の罪の赦しのために、十字架の上で自分のいのちを捨てられた姿を教えています。

結.
 イエスは、何の罪も犯していなかったのに、十字架にかけられました。しかしイエスは、自分から十字架に向かっていかれたのです。
それは、本来は私たちがかけられるべき十字架に、私たちの罪のさばきの身代わりとなって、ご自分からかかってくださったということです。
私たちは、どんな人であっても、必ず死にます。そして死後、神の前で、生きていたときに犯した罪のさばきを受けなければなりません。
殺人罪の報いは永遠の死です。窃盗の報いも永遠の死です。誰かを傷つける言葉を言った報いも永遠の死です。
そして罪とは、行動ではなく、私たちの心の中にあるどす黒い感情です。
たとえ行動として出なくても、すべての人間に待っている報いは、永遠の死です。この永遠の死のさばきと無関係な人は一人もおりません。
しかしイエス・キリストが、私のために死んでくださったと信じる者は、決して罪に定められることはないのです。
たとえ私たちが、どんな罪の重荷に苦しんでいたとしても、イエス・キリストを仰ぐとき、必ず解放され、救われます。
このすばらしい知らせを信じて生きようではありませんか。このすばらしい知らせを伝えていこうではありませんか。
posted by 近 at 08:33 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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