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2016.8.21「渡されたバトン」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
さて、今年度から、礼拝説教は教会学校で使っている教案誌「成長」の聖書箇所に合わせています。
ただ「成長」で扱っている聖書箇所が常に伝道的な内容であるわけではありません。
しかもそんなときにかぎって、ミッションスクールの生徒さんたちが夏休みの宿題で10人以上大挙してやって来ました。
いつもなら喜ぶところなのですが、求道者向けの説教ではなかったため、講壇に立つ瞬間まで頭真っ白でした。
そんなわけで、この日の説教はほぼアドリブで、オリンピックの話から自分が高校生の頃の話と、まとまりのないものになってしまいました。
今回の説教録画は、もともと用意していた説教原稿に基づいて、第一礼拝(朝8:00からの少人数礼拝)で語ったものです。
本来、教会員の方々に聞いてほしかった説教でした。週報はこちらです。

聖書箇所 『申命記』34章1-12節、『ヨシュア記』1章1-9節 


1.
 さて、7月の最初の日曜日から始まり、私たちは、教会学校ならびにこの礼拝で、モーセの生涯を学んでまいりました。
今日の説教はその締めくくりになります。
イスラエルを導く役目がモーセからヨシュアへとバトンタッチされる姿を通して、私たちが信仰を継承していく姿を学びたいと願います。
まず、申命記の最後のところを見てみましょう。神はモーセの120年の生涯の終わりにあたり、山へ登らせました。
そしてその頂に立ったモーセの目に、神は眼下四方に広がるカナンの光景を見せられます。そしてこうモーセに語られました。
4節、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、あなたの子孫に与えようと言って誓った地はこれである。
わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡っていくことはできない」。
なぜ渡っていくことができないのでしょうか。モーセが120歳でよぼよぼのおじいさんになっていたからでしょうか。
いいえ、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった、とあります。
モーセがカナンに入っていけないのは、彼が一度犯してしまった罪のゆえでした。
メリバというところで、民がのどが乾いて死にそうだと騒いだとき、神はモーセに、岩に命じて水を出しなさいと言いました。
ところがそのときモーセは、神の言葉に真っ直ぐに従わない罪を犯してしまったのです。
岩を二度、三度、杖で叩いて、しかも民に向かって「あなたがたのために私たちが水を出さなければならないとは」と言ってしまいました。
それは、モーセがまるで自分の力で水を出したかのように振る舞う罪でした。
また二度、三度岩を叩いたことも、神はモーセがご自身のみことばを信じていない証拠としてみなされました。
そしてそのさばきとして、あなたは約束の地を見るが、そこに入ることができないと、そのときに宣告しておられたのです。
今モーセは約束の地を前にして、その言葉をかみしめていたことでしょう。
しかしカナンは約束の地ではありますが、決して天国そのものではありません。
確かにモーセは自らの罪によりそこに入ることはできませんでしたが、永遠のいのちは手に入れていたのです。
だから彼は神の前に騒ぎ立てることもなく、安らかに瞳を閉じました。神は静かに、彼の波乱に満ちた生涯を静かに終わらせてくださいました。
彼は、決してただ働きのむなしい人生ではありません。
約束の地に入ることはできませんでしたが、信仰による救いという約束のものは確かに手に入れた生涯でした。2.
 そして申命記は休む暇なく、ヨシュア記へと続きます。
モーセという、あまりにも偉大な前任者のあとを引き継いだヨシュアは、どのようにしてモーセを越えていったのでしょうか。
それはヨシュア記の最初の章をつぶさに読んでいくことで浮かび上がってきます。どうぞ実際にお開きください。
1節、「さて、主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。わたしのしもべモーセは死んだ」。
ここから始まるヨシュアへの命令の中で、何度となく繰り返して語られることばにお気づきになりますか。それは「モーセ」という言葉です。
ヨシュアは、モーセが死んだ後も「モーセの従者」とさえ言われます。しかしここにはひとつの真理があります。
ヨシュアは、モーセがしてきたことを否定したり批判したりするのではなく、
自分がいつもモーセと共にいたことを心に思い起こすことで、モーセの後継者というプレッシャーを跳ね返したのです。
この世の企業や組織などでも、後継者として鳴り物入りで呼ばれたり、選ばれたりする人々がいます。
しかしその多くが、人々の心をつかんで事業を継続していくことに失敗します。
なぜならば、前任者が積み上げてきたものを批判し、そのやり方を変えようとしてしまうからです。
振り返ってみると、私自身にもそのような傾向があったかもしれないと思います。
教会に赴任早々、新しいやり方を教会に持ち込み、以前の教会ではこんなことはできなかったと言われ、いい気になったことがありました。
しかし神はヨシュアを新しいリーダーとして召すにあたり、ヨシュアがモーセの従者として、いつもモーセと共にいた日々を思い起こさせました。
 過去を否定することで新しい時代を切り開こうとするのは、不毛なリーダーです。
憎む力が愛を生み出さないのと同じように、過去を否定することは未来を生み出す力にはなり得ません。
ヨシュアに開口一番、モーセの死の事実を告げた神は、次にモーセという言葉を出すときにはこう語ります。
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」と。
モーセは己の罪によって約束の地に入れなかった失敗者ではありません。
モーセが杖で切り開いた道をヨシュアが足の裏で踏み固めていくのです。
ヨシュアは今、モーセの行ってきたことを否定したり批判することで自分をニューリーダーとして認めさせる誘惑に直面していました。
しかし神はモーセが神のしもべであり、ヨシュアも同じ神のしもべであることを思い起こさせることで、ヨシュアを重荷から解放したのです。

3.
 そして神は、モーセがヨシュアに残した最大の遺産を彼に伝えます。それはモーセが書き残した、神のことばです。
8節、「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。
そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。
 14年前、私が教会に赴任してきたとき、牧師の書斎には何もありませんでした。
引っ越したのだから当たり前だろうと言われるかもしれませんが、教会の過去を知るために必要なものが何も残されていませんでした。
週報や役員会報告といったものは、あくまでも外部の人に見せられる範囲の資料です。
むしろ私が求めていたのは、それらに出ていないもの、つまりこの教会がそれまでの30年の間、どんな問題が起こったのかということでした。
じつのところ、40周年記念誌を出し終えた今に至っても、断片的にしかわからない部分がたくさんあります。
しかし何も残されていなかったことで、かえって私は強制的にひとつの道に追いやられました。
それは、ただ聖書にだけしがみついていかなければならない、ということでした。
教会の過去に起こった色々な傷がひしめいている中で、私にできることは、ただ真っ直ぐにみことばを語らなければならないということでした。
配慮もへったくれもありません。何も知らないくせに、すべてを見てきたかのように柔らかい説教をすることは私にはできませんでした。
みことばは、特効薬のようにすぐにみなさんを生かすものではありません。
しかし長い時間かけて聞いていくことで、目の前に振り回されることなく、みことばだけに信頼できる者たちを養っていくことができます。
みなさんがその者たちです。たとえこの教会が何らかの理由でなくなってしまうようなことがあっても、
皆さんの中に蒔かれたみことばの種は、聖霊の風に乗って、いつまでも、どこまでも広がっていくことでしょう。

結.
 モーセからリーダーを引き継いだヨシュアもやがて次の者にリーダーのバトンタッチをしなければなりませんでした。
私自身も、来年か、それとも数年後かはわかりませんが、いつでも引き継げるように心ぞなえはしています。
しかし何が起ころうとも、教会を教会たらしめる鍵は、牧師の能力や資質ではありません。
信徒ひとり一人が自分の生活の中で、どれだけ聖書のことばに向き合い、それにしがみついていけるか、ということにかかっています。
そのために、ひとり一人がみことばと格闘していく時間と場所を確保していきましょう。
信徒がそのように神としっかり結び合う姿を見ればこそ、牧師はたとえ志なかばにして働きを離れなければ成らないことが起こっても、
モーセのように静かに次の者に民を託すことができるのです。
私たちの教会が、名前の通りに神の栄光を豊かに現す教会となるために、ひとり一人がみことばにしがみついていく者となりましょう。
posted by 近 at 21:10 | Comment(0) | 2016年のメッセージ
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