こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回は説教の導入で、ちょっと落語めいたものを取り入れてみました。出来はともかくとして、我ながらすごく楽しそうにやっていますね。
説教本編もこれくらい楽しそうにやれば良いのに。やはり道を誤ったんでしょうかネ。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章24-29節
序.
江戸の笑い話の中に、こんなのがあります。
江戸川のほとり、通称うなぎ長屋に住んでいる、熊五郎のところへ、ご隠居が青い顔をして飛び込んできた。
「どうしました、ご隠居。そんなにあわてて」。
「ああ、熊さん、無事でしたか。よかった。いえ、さっき江戸川の土手っぺりを歩いていたら、おぼれて亡くなった人がいてね、
その顔があなたにそっくりだったんでね、それでまさかと思って、急いで駆けつけた次第なんです」
それを聞いた熊さん、まだ肩で息をしているご隠居を突き飛ばして、恐ろしい早さで外へ飛び出していった。
ぽかんとするご隠居、するとしばらくして熊さんが帰ってきた。
「ご隠居、大丈夫ですよ。あの土左衛門、確かにおれとうり二つだったけど、よくよく見たら、やっぱりおれじゃなかった」。
これのどこがおもしろいの、という人は、ちょっと頭が硬いかもしれません。
あわて者の熊五郎、で片付けることもできますが、自分の目で見るまでは納得しない、というのは、決して彼だけではありません。
弟子の一人、トマスもそうだったのかもしれません。
そして、多くの人々もまた、自分の目で見て納得しなければ、決して信じようとしないのです。1.
もし目に見えるものしか信じません、という人生観に私たちがこだわっていたら、数え切れないほど多くのものを失うことでしょう。
愛は目に見えません。愛のわざは見えるかもしれませんが、その原動力である愛そのものは目に見えません。
「大切なものほど、目には見えない」。『星の王子様』という小説の中で、作者は王子にそう語らせています。
多くの人は、目に見えるものの中にこそ安心を得ようとします。お金があれば安心。体が健康であれば安心。
しかし預金通帳や健康診断書に出てくる数字がどんなに好ましいものに見えたとしても、そこには本当の安心はありません。
目に見えるものは、どんなに盤石に見えたとしても、必ずいつかは、そして突然に、崩れます。
そしてそれに依存していればいるほど、それらを失うことの悲しみは、その人を激しく打ちのめします。
大事なのは、目に見えるかどうか、ではなくて、たとえ見えなくても信じることができるか、ということです。
ある教会に、昼間から酔っ払いがやってきて、「神父さん、神さまを見せてくれ。見せてくれたら信じてやる」と言ったそうです。
そこの先生は、「神父ではなく牧師です」と前置きした上で、こう言いました。
「私には、神を見せることはできません。しかし、神について聞かせることはできます。
あなたに神を見せることは決してできません。その代わり、あなたが望むなら、一時間でも二時間でも、神について聞かせます」。
その人は酔いが覚めて逃げて行ってしまい、その牧師は後で奥さんから、あんな言い方をしたら誰でも逃げますよ、と怒られたそうです。
しかし大事なことは忘れないでください。
神を目で見ることはできなくても、聖書から聞くならば、私たちは肉眼以上に、神について知ることができるのです。
そして神を知ることは、やがてその人を神を信じる信仰へと進ませます。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という、イエス様の言葉を心にとめてください。
2.
ところでトマスもまた、目で見なければ信じようとしない、頑固な男だったのでしょうか。
イエスがよみがえったという仲間の証言を聞いたとき、彼はそれを受け入れず、彼らにこう言い放ちました。
「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。
しかし次のことを私たちは、見落としてはならないでしょう。トマスは、イエス様が十字架で死なれたとき、そこにいなかったのです。
トマスを含めほとんどの弟子たちは、イエス・キリストが捕らえられたとき、逃げ出しました。
ヨハネ以外、彼らが十字架のときにどこへいたのか、はっきりと書かれてはいません。
イエス・キリストが十字架の上に釘で刺し通され、わき腹を槍で突き刺された瞬間を、トマスは見ていないのです。
それにもかかわらず、イエスの弟子たちのなかで、トマスほどイエスの傷跡を、まるで見てきたかのように語っている人はいません。
私が言いたいのは、トマスの言葉の激しさは、彼の不信仰の表れではなく、主を見捨てた自分への厳しさの表れであったということです。
「イエスの傷跡を見て、触らなければ信じない」と言い放った彼は、弟子たちの中で一番、自分の罪を見つめていた人でした。
イエスさまが十字架につけられたのは私のせいだ。釘打たれ、槍で突き通されたのは私のせいだ。
それはとうてい赦されるべきものではない。私たちは主を見捨てたのだ。私は、今さら主に出会うことなどできない者なのだ。
もはや主に弟子と呼ばれる資格などない者たちなのだ。
福音書の中には、トマスの言葉が三回登場します。そのうちの一つは、「私たちも主とともに一緒に死のうではないか」という言葉でした。
ペテロ以上に、イエスを愛していたといっても間違っていないトマスでした。しかし私は主を見捨てた。
トマスの心は、自分が犯した罪で張り裂けんばかりであり、だからこそ彼は一人だけ、弟子たちの集まりから離れていたのでしょう。
3.
しかしイエス・キリストは、トマスの心もすべてご存じでした。
自分が見てもいない十字架を、まるで見てきたかのように語ることができるほど、罪に苛まされていたトマスの心を、すべてご存じでした。
罪意識で心が一杯になっていたトマスには見えていませんでしたが、イエス様は彼がその言葉を言ったとき、すぐそばにおられたのです。
イエス様は、八日目に、今度はトマスがいるときに、また同じように内鍵をかけた部屋の中に現れました。
そしてトマスのやるせない思いが現れた言葉に対して、はっきりと答え、彼の行くべき道を示してくださいました。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。
トマスは、自分が罪人であることを誰よりも理解していました。しかし彼は、その罪をどう受け止めるかについて、無力でした。
罪悪感に押し流されて、不信仰の谷底へと落ちていく前に、イエス様は彼の手をしっかりとつかんでくださいました。
そして、信じない者にならないで、信じる者になりなさい、と言われたのです。
私たちは、こんな罪人が救われるはずがない、というあきらめに落ち込んではならないのです。信じる者は必ず救われます。
ある賛美歌の中に、「救われるためには罪が大きすぎると嘆くのはだれか」という歌詞があります。
罪が大きければ大きいほど、赦される恵みも大きくなります。トマスは「私の主。私の神」と叫びました。
イエスの傷跡を見たとき、彼は信じました。釘跡に指を差し込み、わき腹に手を差し込む前に、彼は見ただけで信じました。
そしてイエス様は、「見ずに信じる者は幸いです」と言われました。それは、イエスを見ずとも、信じることができる私たちを指して言っているのです。神は、信じる者を必ず救ってくださるお方です。救われるためには、ただこのキリストを信じることです。
あなたのいかなる罪をも引き受け、代わりに死んでくださり、よみがえってくださったイエス・キリスト。
この方を、ひとり一人が確かに心にお迎えすることができるようにと祈ります。
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posted by 近 at 20:02
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