クリスマスの案内チラシを、今年もラクスルさんで6000部発注。
A4両面カラーで一枚2円也。目に触れるかどうかは未知数ですが、教会会計にはたいへん助かります。

聖書箇所 『マタイの福音書』1章18-25節
序.
クリスマスの讃美歌の中に、「みどりご」ということばがよく出てきます。
赤ちゃん、つまり「赤子」と同じ意味ですが、なぜみどりごと言うのでしょうか。
辞書で調べたところ、奈良時代の大宝律令という法律で、三歳以下の幼児は「みどりこ」と呼ぶことに決められて、その名残だということです。
幼子の瑞々しい生命力が、新緑の若葉を連想させるから、という説明もありました。
讃美歌としては「赤子」より「みどりご」のほうが情感豊かでよいのですが、
私は赤子ということばから受ける、血管が透き通って、肌が赤みを帯びている、そういうイメージも捨てがたいと思います。
日本語には「赤い心」と書いて「赤心」という言葉があります。嘘偽りない、心の思いという意味です。
「赤」は裸を指します。何も飾らず、何も偽らず、何も取り繕わないのが赤心であり、丸裸の赤子の姿です。
聖書の中で頻繁に出てくる「罪のゆるし」という言葉も、ごんべんの許しではなくて、あかへんの赦しという漢字です。
赦すことも、赦されることも、それは自分の心を丸裸にしてすべてをさらけださなければなりません。
そして今日の聖書箇所には、自分の心を丸裸にして「赦す」ことを問われた、一人の男性の姿が描かれています。
それがヨセフです。まず18節をもう一度お読みします。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」。1.
しかしマリヤが聖霊によってみごもったことは、後でヨセフが夢を通して知らされたことでした。
ヨセフがまず知ったのは、婚約者マリヤが、結婚前に自分以外の誰かの子を身ごもった、という耐えがたい現実でした。
いま彼の目の前には、二つの選択肢がありました。
ひとつは、旧約聖書のおきてに従って、マリヤを死刑に当たるものとして人々に引き渡す道。
そしてもうひとつは、こっそりとマリヤに離縁状を渡して、無関係な者となることです。
いずれを選んでも、彼を待ち受けているのは、マリヤを失うことだけでした。もしあなたがヨセフなら、どちらの道を選ぶでしょうか。
信じていたマリヤに裏切られました。自分を裏切った婚約者を、心の底から赦すことができるでしょうか。
太宰治という作家の名前を聞いたことがあるかと思います。
数々の作品を世に出した天才でしたが、家族を顧みること少なく、最後には愛人と一緒に川へ飛び込んで溺死しました。
残された妻はその後、まだ幼い子どもたちを抱えながら住居を転々としたそうです。
それでも彼女は自分を捨てて愛人のもとへ走った夫への恨みを語ることはありませんでした。
太宰が死んでから30年後、彼女は「回想の太宰治」という本を出しましたが、その本の冒頭では、こう書かれています。
私には、はじめから私の覚悟があったのです。私は、人間太宰治と結婚したのではなくて、芸術家と結婚したのです。夫・太宰治のただれた女性関係を心から赦していた彼女も、ヨセフと同じような「正しい人」であったのかもしれません。
彼の文学のためならば、私はあらゆる犠牲を惜しまないつもりでした。
そしてそのためには、私は自分が女であることをも否定して生きてきました。
しかし、今日私がみなさんに問いたいのは、「正しい人になりましょう」ということではありません。
あえて「正しい人」であるヨセフに、「罪から救ってくださる」イエスの予告がなされたのだ、ということを考えてほしいのです。
2.
およそすべての人が、「私は罪人ではない」と言います。
ヨセフが「正しい人」であるならば、私だって「正しい人」だ。今まで警察のご厄介になったこともないし、近所では「いい人」で通っている。
そんな私に、宗教や救いなんかは必要ない。
しかし「正しい人」ヨセフに、罪からの救いが真っ先に語られた、という事実。
これは、「正しい人」でさえ罪から救われる必要がある、ということをはっきりと教えています。
この世の基準から見れば、ヨセフは「正しい人」です。あなたも「正しい人」でしょう。
しかし私たちの正しさ、それはたとえるならば、美しい刺繍が施された着物のようなものです。
表から見れば、確かに非の打ち所がないほどに美しい仕上がりでしょう。
しかし裏から見れば、そこには糸がほつれたり、絡まったりしているのです。
あるいは私たちの正しさは、こっとん100%の純白のシーツかもしれません。
電子顕微鏡で見れば、その表面は岩山のようにごつごつとしており、汚いまだら模様に映るのです。
ヨセフは正しい人でした。しかしどんなに正しい人でも、罪からの救いを必要としていることには変わらないのです。
私たちは神の法廷の被告席で、自分の正しさを主張します。
しかし神の前にはじめから罪人にすぎない私たちは、決して神を納得させ、無罪を勝ち取ることはできません。
私たちが無罪とされる方法はただひとつ。
自分の罪を認め、イエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架についてくださったことを受け入れることだけなのです。
3.
ヨセフは、自分が救いを必要としている民のひとりであることを認めました。
眠りからさめると、すぐにその妻マリヤを迎え入れ、子どもの名をイエスとつけた、とあります。
彼は、信じました。自分の妻の胎から生まれ出る者が救い主であるという約束を。
すべての人を救うことのできるお方は、二千年前にベツレヘムで生まれました。
しかしこの方は、その前にまずヨセフの心に生まれる必要があったのです。
マリヤは、そのお腹の中にイエスを宿しました。そしてヨセフは、その心の中に、イエスを宿しました。
私たちがイエス・キリストを信じるということ、それは私たちの赤心、つまり丸裸の心の中に、神の赤子イエス・キリストを宿すということです。
私は罪人であることを赤心から認め、この方だけが私をこの罪のさばきから救ってくださるのだ、と。
心にかたく信じ、心の真ん中にイエスをお迎えするということです。
イエス・キリストが二千年前にベツレヘムの馬小屋で生まれてくださったことをたとえ何千回聞いたとしても、
今日あなたの心にイエス・キリストが生まれてくださらなければ、あなたの心に救いは訪れません。
しかしイエス・キリストが心の中に生まれてくださるとき、私たちはだれもがこう叫ぶことができます。「インマヌエル、神は私とともにいてくださる」と。
どんなつらい出来事も、思い出したくない経験も、インマヌエル、神、我らとともにいます、の証しとなります。
今年のクリスマス、私たちは一緒にこう叫ぼうではありませんか。インマヌエル、と。
あなたを罪の滅びから救ってくださる方がいます。その方は、どんな時でもあなたを愛し、あなたを決して捨てません。
そしてその方こそ、二千年前のクリスマスに、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストなのです。
一緒にお祈りしましょう。