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2017.1.8「ましてや、神は」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教ビデオの終盤(26”10〜)にて、アドリブ(=原稿にない)で戦国大名・毛利元就の逸話を紹介しています。
なんかうろ覚えで、聞いている人はよくわからなかったかもしれないので出典を示します。といっても、Wikipediaからの引用ですが。
「江譜拾遺」には、元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社へ参拝に行った際の逸話が残っている。元就が、家臣に祈願の内容を訊ねると、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えた。それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ」と言った。家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑ったが、元就は、「天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と反論し、自らの理想の高さを示した。
18世紀末からインド宣教に献身したウィリアム・ケアリの有名な言葉に通じるところがありますね。
神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」。
余談ですが、昔見たNHKの大河ドラマ『毛利元就』では、悪役を演じた片岡鶴太郎さんの凄みが印象的でした。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』11章5-13節 

序.
 二、三年前のことですが、あるキリスト教の映画を新潟で上映したいから協力してほしい、とプロデューサーから頼まれたことがありました。
私の人脈の広さゆえ、なんてことではまったくありません。
そのちょっと前に開かれたある集会に出たとき、その方の荷物の見張り番をしたことで面識があったという関係です。
そのときはたまたま、と思いましたが、背後には神様のご計画があったのでしょう。
協力してほしいというから教会で映画のチケットを買って欲しいということかと思ったら、話をしてたまげました。
新潟県民会館の大ホールを上映場所として予約しているが、宣伝をまったくやっていないので、観客を2000人集めてくれ、というのです。
期間はわずか三週間。もともとそういうイベントが得意な人間ではありませんので、必死で逃げようとしました。
あの先生、この先生に頼んだら、と新潟の他の牧師の名前を挙げてお断りしたのですが、必死さにおいて向こうが勝っていました
韓国人のその方は急にカタコトになって、「私ニハモウ先生シカ頼レナイノデス・・・・」と黙りこんでしまいました。
もう仕方がない。覚悟を決めて、わかりました、引き受けましょう、と答えました。
すると向こうも急によくしゃべるようになって、では今日から動いてくださいね、神様の祝福がきっとありますから、と言って帰って行かれた。
今度は私がテレビ局や新聞社に頼み込む立場になりました。
ほとんどのところは門前払いを喰ったのですが、ある新聞社が取り上げてくださったときには、担当者から暖かい言葉を頂きました。
色々と大変なことがたくさんあったのですが、とても良い経験をすることができて、それは私の人生にとって忘れられない宝物になりました。
1.
 今日の聖書箇所は、祈りについてイエス様がたとえ話を通して教えてくださっているところです。
イエス様は、大切なことを話すときにはいつもたとえ話を用いられました。しかし私たちはこのたとえ話を注意して受け止めなければなりません。
真夜中の訪問者に対してしぶしぶパンを与えた友人、彼の姿と神様のご性質をいっしょくたにしてはならないからです。
神は眠ることもなければ、まどろむこともないお方です。いついかなるときも、私たちひとり一人に目を向けてくださっているお方です。
どんな願いにも耳を傾けてくださり、その求めがみこころにかなっているならば、決して出し惜しみすることなく、気前よく与えてくださるお方です。
今日のたとえ話を読むときのキーワードは、「ましてや」という言葉です。
真夜中に目をこすりながらドアの内側に立っている友人であっても、あくまでも頼み込むならば、たとえしぶしぶであっても与えてくれるではないか。
「ましてや」、私たちの父なる神が求める者たちに恥をかかせることがあるだろうか。
魚をください、卵をくださいと願っている子どもに対して、地上の父親であってもその願いを叶えてあげたいと思うではないか。
「ましてや」、天の父なる神が、私たちに必要なものを与えてくださらないことがあるだろうか、と。
クリスチャンは、イエス・キリストの十字架を通して、神の子どもとされた者たちです。そして神はその子どもたちの心の中に住んでくださるお方です。
私たちが神様に祈るとき、神ははるか遠い天におられて、その祈りに耳をそばだてているということではありません。
神は救われたひとり一人の心の中におられ、私たちの祈りをこんなに近くで聞いていてくださいます。
玄関の閉ざされたドア一枚を隔ててやりとりしているのではありません。
すでにキリストの十字架によってドアは開けられ、私たちはどんなことも神に祈ることができます。
クリスチャン、すなわち神の子どもとされた者たちに与えられる、祈りの特権をかみしめていただきたいと願います。

2.
 私たちが祈るとき、神はその祈りに必ず答えてくださいます。しかし答えてくださるというのは、「かなえてくださる」という意味ではありません。
祈りというのは、神様のみこころを変えるためのものではなくて、私たちの心を神のみこころに近づけるためのものです。
言い換えれば、私たちの願いが天で広められることを願うのではなく、神のみこころが地で行われることを願い求めるのが祈りです。
祈りを通して、私たちの近視眼的な見方は、神のご計画を待ち望むように変えられていきます。
祈りを通して、かたくなな心が砕かれ、神の器にふさわしい柔和な者へと変えられていきます。
このたとえ話を通してイエス様が教えようとされたのは「とにかくひたすらしつこく神にしがみつけば、祈りはかなえられる」ということではありません。
むしろ逆です。真夜中の必要のときだけ、神の所に行って願いをぶつけて終わる者になってはならない、と。
朝も、昼も、そして夜も、あなたの父である神を求め続けなさい。捜し続けなさい。門を叩き続けなさい、と。
今年、友人や知人から年賀状を受け取った方も多いでしょう。
「今年もよろしく」と書いてありながら、年賀状以外のやりとりは一切ないということもあるかもしれません。
私たちと神様との関係はそうであってはなりません。「絶えず祈りなさい」と勧めたパウロの言葉を心に刻みつけてください。

3.
 祈りを通して、私たちは神にふさわしい者へと変えられていきます。
祈りについてイメージを深めるために、厳重な装備に身を包んだ登山家ふたりがコンビになって、絶壁の山を登っていく姿を想像してみてください。
先に登っている一人が、氷壁に鉄の杭を打ち込み、ザイルをそれに引っかけて、下でしがみついている仲間のところへと伸ばします。
彼がそのザイルをつかむと、時間をかけて少しずつ引き寄せながら、一人では決して登れない絶壁を見事に登っていくのです。
あなたの今までの祈りというのは、上にいてあなたにザイルを差し伸ばしている神様を下に引きずり下ろす、というものではなかったでしょうか。
つまり、自分自身のお願いごとのレベルにまで神のみこころを合わせようとする、ということです。
しかしイエス様が教えてくださった祈りはそうではありません。
自分のレベルに神を引き下ろすのではなく、神のみこころという高いレベルに、私たちの信仰を引き上げていただく、それがクリスチャンの祈りです。
 祈っても神が与えてくださらないのは、まだ私たちがそれを受け取っても生かすことのできない信仰の場所に留まっているからです。
しかし祈りは、私たちを時間をかけて訓練します。
神様が私たちを信頼し、ご自分の賜物をゆだねてくださるところにまで私たちを整え、高めてくださいます。
それを、ある讃美歌作者は「恵みの高き嶺(ね)」と名づけました。
その高き嶺を登っていくために、父なる神は「聖霊」を私たちに与え、どんなときにでも支えてくださることを約束してくださいました。
ひとり一人が、新しい祈りをもって、神のみこころに近づいていきましょう。
posted by 近 at 14:24 | Comment(1) | 2017年のメッセージ
この記事へのコメント
おはようございます。主のみ名を賛美いたします。近牧師のメッセージから今必要な力をいただいております。と同時にこの時を与えてくださる神に感謝いたします。
Posted by 黒田明美 at 2017年01月13日 07:43
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