こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
昨年から、礼拝説教とCSメッセージは、同じ聖書箇所から語るという試みを続けています。
同じ箇所から語っても内容がだいぶ変わるということも時々あり、今回もまたそうでした。
CSメッセージではソロモンに知恵が与えられ、それを用いて本当の母親を見分けた(「大岡裁き」のモデル?)できごとが語られました。
しかし礼拝説教ではいわゆる「大岡裁き」には触れず、知恵が与えられたソロモンがその知恵を生かし切れなかったのはなぜか、でした。
子どもたちはCSと礼拝の二回、同じ箇所から聞いているので、混乱しないだろうかという心配もないわけではありません。
しかし一つの聖書箇所を異なる切り口から見つめることで、みことばの芳醇さを味わってほしいとも思います。
いやあ、聖書って本当におもしろいですね(故・水野晴郎風に)。週報はこちらです。
聖書箇所 『列王記 第一』3章1-15節
序.
今から420年前のちょうど今日にあたる1597年2月5日、長崎で26人のカトリック信者が十字架刑に処せられました。
その中で最も最年少にあたるルドビコ茨木という少年は、わずか12歳でした。
処刑を担当していた役人は、まだ幼いルドビコをあわれに思い、「もしキリシタンの教えを捨てれば命を助けてやる」と言ったそうです。
しかし彼は「御奉行様、この世の束の間の命と天国の永遠の命を取り替えるわけにはまいりません」と毅然と答えた、と書き残されています。
彼ら26人が十字架の上で殉教したのと同じ日、キリストのために地上の命を捨てた先達をおぼえながら、信仰を学んでいきましょう。
先ほどお読みしたソロモンがイスラエルの王として即位したのは、12歳とは言いませんが、まだ若かったことは間違いありません。
彼の父ダビデは王国の礎を築いた、偉大な王でした。
まだ若いソロモンが父ダビデの後を引き継ぐのはどれだけの重荷であっただろうか、想像に難くありません。
自分と父を比較して批判する者たちを黙らせるだけの富、力、栄光を求めてもおかしくはありません。
しかしソロモンは、主を愛し、父ダビデを尊敬していました。
そして自分が父に及ばない小さな者であることを認める謙遜さを持ち合わせていました。
だから彼は、夢の中で一つの願いを許されたとき、こう願いました。
このしもべのような小さい子どもが、数え切れないあなたの民の声を聞き取り、正しいさばきを行えるように、知恵と判断力をください、と。
それは、神のみこころと一致したと聖書は記しています。
さらに神は、知恵だけではなく、ソロモンが願わなかった富と誉れをも与える、と約束してくださった、とも。
1.
今日の説教題は、「ソロモン王の光と闇」です。まず私たちは、知恵を求めた若きソロモン王の謙遜さに、光を見ます。
私たちが自分自身の富、力、栄光を求めるならば、神はその願いを退けられます。
しかし私たちが自分の罪と弱さを認め、それでも私を通してあなたの栄光を現してくださいと神に求めるなら、必ず恵みを受け取ります。
今日、多くの人々が、まさにルドビコのいう束の間のものに依存し、そこから抜け出すことができません。
その中で助けを求めて、教会の門を叩く人々もいます。
しかし昔も今も、教会が確信をもって語ることのできることばは、使徒ペテロがある物ごいに語ったことばと同じです。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒3:6)。
あらゆる問題は、最後にはこの言葉に辿り着かなければなりません。
イエス・キリストだけが、私を罪と悪習慣の泥沼から救ってくださるお方なのだと決心するならば、私たちは泥沼から引き上げられるのです。
それは、ただキリストだけに信頼すると決断するとき、それまでその人を依存させていた罪の原理が、もはやその人を支配できなくなるからです。
信仰は、神が私の創造者であり、人生の計画者であり、生活の監督者であることを認めることです。
人生の主導権は、私にではなくキリストにあると信じることです。
そうすれば、たとえ何が起ころうとも、イエス・キリストがすべてを備えてくださると、この世のものを恐れる必要がなくなるのです。
2.
しかしソロモンの謙遜が問われるのは、じつはこの後でした。神がソロモンに与えた言葉の最後に目をとめましょう。14節、
「また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」。
神は確かに「知恵の心と判断する心」をソロモンに与えられました。
しかしソロモンがこれからもダビデと同じように、神の道を歩み続けるか。それとも自らの知恵と判断を神よりも重んじるか。
そこに彼の謙遜が問われていました。残念ながら、この後の聖書の記録は、彼がはじめの愛と謙遜から離れていく姿を描いていきます。
そしてそれはすでにこの聖書箇所のはじめのほうに現れていました。
1節の前半にこう書いてあります。「ソロモンはエジプトの王パロと互いに縁を結び、パロの娘をめとって、彼女をダビデの町に連れて来」。
ソロモンは、与えられた知恵の使い方を間違えました。
強大な敵国であり、偶像を神として拝んでいるエジプトとの平和を手に入れるために、パロと親戚になることを選んだのです。
そしてこれは、妥協の始まりでした。この第一列王記の11章には、ソロモンの結婚関係についてこう述べています。
「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けた」(11:3,4)と。
七百人の王妃は、子どもを残すためではありません。親戚関係を結ぶことで、周辺諸国や部族との平和を作り出したのです。
しかしそれはこの世の知恵であり、神が望まれたものではありませんでした。
もとより聖書は、一夫多妻を禁じています。そして神のことばとみこころよりも、自分の知恵と判断に、ソロモンは依存してしまいました。
王妃やそばめたちが故郷から持ち込んできた偶像がソロモンを狂わせ、イスラエルから神の祝福を奪い取っていったのです。
3.
確かにソロモンは、民を正しくさばく知恵と判断力を与えられました。
しかし彼の知恵は、他人をさばくこと専用でした。その知恵と判断を、自分自身の心を見つめることから彼は逃げ続けました。
神の与えたもうた知恵は真実なものであったとしても、その用い方を間違えるならば、それは私たちを闇へと引きずり込むのです。
現代のクリスチャンにも同じことが言えるでしょう。
礼拝で、祈祷会で、日々のディボーションで、私たちは数多い機会を通して、聖書を受け取っています。
しかしそれが語られるとき、この世の人々ではなく、まず自分に当てはめることがないならば、ソロモンの失敗を繰り返すことになるのです。
確かに、イエス・キリストを信じた私たちは、この方の完全なる犠牲によって、完全に救われました。
どのような罪を犯すことがあっても、与えられた救いは決して取り去られることはありません。
しかしみことばを聞き、それを自分自身に語られている言葉であることを受け入れないのであれば。
罪が示されても悔い改めることをせず、神に従うことをあきらめてしまっているならば。
そんな私たちの人生に待っているのは、たとえ救われていたとしても、罪との妥協と言い訳の繰り返しです。
ひとり子イエスを十字架につけてまで私たちを救ってくださった神は、私たちが光の中を喜びながら歩み続けることを願っておられます。
光によって生まれた神の子どもたちは、光の中に留まり続けるべきです。
日曜日に少しだけ光に暖まって後の六日間は闇に留まるような、光と闇を行き来する一週間に対して、はっきりと決別しましょう。
私たちが光の中を歩み続ける秘訣は、この神のことば、聖書を心に刻みつけて、神のみこころが何かを思いながら、歩んでいくことです。
ソロモンは、光か始まったのに、いつのまにか闇に落ち込んでしまいました。
それは神から与えられた知恵を、他人のためには役立てても、自分の心を神の知恵で照らし出すことからは逃げていたからです。
今一度、わずか12歳の信仰者の命がけの告白に耳を傾けましょう。「束の間の命と永遠の命を取り替えるわけにはまいりません」。
彼らは光の中に留まりました。その信仰は、400年以上経った今も、私たちの心を温め続けてくれます。
私たちひとり一人も、光の中に留まるものとなりましょう。
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2017.2.5「ソロモン王の光と影」
posted by 近 at 08:49
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