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2017.2.19「幼子のように」

こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『列王記 第二』5章1-19節 

1.
 どんな人間にも欠点、いや弱点があるものです。
ビジネス街を颯爽と歩くキャリアウーマン。しかし彼女には仕事のために家族を犠牲にしているという負い目がありました。
その負い目を封印するかのように、さらに仕事に没頭すればするほど、家族と過ごす時間は消えていきました。
今日登場するナアマンは、約2800年前の人です。
しかし現代人と同じように、何不自由なく手に入れた中でも彼の心をいつも沈ませているものを抱えていました。それがツァラアトでした。
ツァラアトは、以前の聖書の訳では重い皮膚病と訳されていました。
しかし実際には、ツァラアトは皮膚の下にこそ病の根源があります。どれだけ皮膚をかきむしり、取り除こうとしてもツァラアトには届きません。
それはやがて全身に広がり、筋肉から皮膚を腐敗させ、ついには手足の形をも歪めていきます。
ナアマンは有能な将軍でした。ただ戦に長けていただけではありません。
イスラエルにとって隣の敵国であるアラムの王があえて手紙を書いて通行を求めるほどに、王からも信頼を得ていた側近でもありました。
力、富、名声、彼の人生に欠けたものは何一つないのに、ツァラアトの病は彼が人生を心から楽しむことを妨げ続けるのです。
 このツァラアトは、すべての人間の中に潜んでいる、罪を象徴しています。
どれほどすばらしい人生を送っているように見えても、罪はあらゆる人の中に潜んでおり、私たちが心から人生を楽しむことを妨げています。
人は、悪い行いとして現れてくるものを罪と呼び、自分はそれを抑えているから罪人ではないと言います。
しかし罪の本質は、外側に出て来る行いではなく、内側に隠れている心の深みにこそあります。
ツァラアトの本質が皮膚の下に潜んでいるように、罪の本質も外の行いではなく心の中に隠れているものを解決しなければなりません。
しかし、心の中にあるものをどうやって取り除くことができるでしょうか。それは、私たち人間の努力や心構えでは不可能です。
私たちの創造者である神ご自身が、見えない御手をもって私たちの心の深みに手を差し入れてくださらなければ、罪は解決されません。
将軍ナアマンが、ツァラアトから解放されていく道のりを学びましょう。
そこには、私たちがイエス・キリストを信じることによって罪から解放されていく道のりが語られているのですから。2.
 イスラエルから連れてこられた一人の少女の言葉が、ナアマンの心を動かしました。
さまざまに手を尽くしてきたが決して逃れられなかったツァラアト。しかし預言者エリシャならば、このツァラアトを何とかすることができる、と。
しかしエリシャの家にまではるばるやってきたナアマンに対して、エリシャは家から出てこようとはしません。代わりにしもべがこう伝えました。
「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」と。
ナアマンは怒り、叫びます。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、
この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに」。
 ナアマンはいやされるためには乗り越えなければならない壁がありました。
それは高慢です。高慢には、わかりやすい高慢と、隠れた高慢があります。
アラムのナンバー2がやってきたのに会ってくれないとは。ヨルダン川よりわが故郷の川のほうがよっぽどきれいな水ではないか。
これらはわかりやすい高慢の例です。しかし「何ということだ」と叫んだ言葉には、それよりも深い、隠れた高慢が現れていました。
それは何でしょうか。ナアマンは、神がどのように自分をいやすのかを、すでに自分で決めてしまっているということです。
エリシャ自らが自分の患部に手を置いて、主の名を呼んで祈ってくれるはず、いや、そうしてくれなければいやされるはずなどない、と。
しかし必死でいやされたいと思う者は、何も知らない子どものように近づかなければなりません。
ナアマンから800年後、イエス・キリストは弟子たちにこう言われました。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」(マルコ10:15)。
子どものようにとは、それまで自分が得てきた信念、価値観、成功体験、あらゆるものをいったん捨てて、ただ神のみこころに従うことです。

 数年前、ある新宗教の熱心な信者の方とのやりとりの中で、その方にこう言ったことがあります。
もしあなたの信じている宗教が本物だったら、悟りを得るためにどうしてそんなに高額なお金を要求されることがありますか、と。
しかしその方は、不思議なことを言う人だと言った表情でこう答えました。
本物の宗教だからこそ、これだけたくさんのお金を払う価値があるんですよ、と。
おそらくこの方は、ブランド品を買いあさる感覚で、宗教、いや救いへの道を選んでいるのでしょう。
しかし救いはブランド品とは違います。お金や時間、奉仕の量で救いを得ることは決してできません。
これだけお金を出したんだから救われるだろう、これだけ時間を費やしているんだから救われるだろう、それがはじめのナアマンです。
銀10タラントは、今日の価値に直せば数億円に値します。アラムの将軍が、王の紹介状を得て、わざわざここまでやってきたという自負。
これだけの犠牲を払っているのだから、神が私の願うやり方で動いてくれるはず、いや、動いてもらわなければならないのだ、と。
しかしもし本当に救われたいのであれば、自分の価値観で神のやり方も指図する、その隠れた高慢を捨てなければなりません。
罪の束縛から永遠に解放されたいのであれば、今まで培ってきた人生観をいったん下に置かなければなりません。
罪に関しては無防備で、救いに関しては無知な幼子であることを認め、ただ神の方法に聞き従わなければ、何も変わることはありません。

3.
 神に感謝すべきは、ナアマンの傍らには、彼を慕い彼のいやしを願うゆえに苦言も厭わない、よいしもべたちがいたことです。
彼らはナアマンにこう呼びかけます。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、
あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
そのとおり。自ら設定したいやしへの方法を勝手に想像し、それにこだわるがゆえに怒りに震えている高慢が、静かに打ち砕かれました。
彼は幼子のような思いをもって、ヨルダン川に身を浸します。
一回、二回、そして七回身を浸したとき、彼の皮膚も幼子のようにきれいになりました。
しかし神のご計画は、彼のツァラアトがいやされることで終わりではありませんでした。
このいやしは始まりであり、ナアマンはこれから偶像のはびこるアラムの国で、まことの神を証ししていくための大使となったのです。
ナアマンは急いでエリシャの家へと戻りました。エリシャは今度は彼に直接会って、彼と顔を合わせました。
ナアマンはそこで二つのことを願います。ひとつは、イスラエルの土を持ち帰って、これからはまことの神にだけ礼拝をささげるということ。
そしてもう一つは、アラムの神リモンを主君が礼拝するとき、どうしても自分も同伴して偶像に膝をかがめることを許してほしいということ。
そのどちらに対しても、エリシャは「安心して行きなさい」という言葉を与えました。
 ナアマンのいやしは、私たちが罪から救われる方法だけではなく、救われた後にどのように生きるべきかということも教えています。
私たちが、心の中に隠れた高慢を捨て去るとき、イエス・キリストは私たちの心の中に入ってきてくださいます。
そして私たちは、今まで自分を束縛していた偶像から解放され、まことの神だけに信頼する者となります。
イエス・キリストをまことの救い主として信じるとき、私たちは与えられた人生を心の底から楽しみ、喜ぶことができます。
ひとり一人が、イエス・キリストを心に受け入れて、歩んでいきましょう。
posted by 近 at 16:47 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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