『君の名は。』で新海誠監督がブレークを果たす前からそれとなく応援していた豊栄キリスト教会。
そんな新海監督よりもさらに当教会が期待を込めて応援してきたのが、クリスチャン漫画家の山花典之先生です。
そんな山花先生の最新作『神様がくれた風景』が、いのちのことば社から満を持して登場です。
病床にあったお母様の救いの証しなども掲載されています。私も一昨年に逝った母を思い出して泣きました。
難病のためにすでに話せなくなっていたので「口で告白する」ことはできませんでしたが、山花先生のお母様は○○で○○だったそうです。
(続きが知りたい方はぜひ本の中で)
上記のリンク先はAmazonですが、できればいのちのことば社直営サイトか全国各地にあるライフセンター書店で購入いただけると幸いです。
豊栄キリスト教会は山花典之先生を応援しています。目指せマンガ界の三浦綾子。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』2章13-17節
1.
「セブン」「ファミマ」「デイリー」「ローソン」、言うまでもなくコンビニ各社の略称です。
コンビニというのはもともとアメリカで始まったものですが、だいたい1970年前後に日本でも始まったということでした。
ちょうどうちの教会と同じくらいの歴史ですね。そして約半世紀の間に、全国のコンビニ店舗数は約55000軒。
これからコンビニはますます増えていくだろう、と考えがちですが、じつは十年後には半分以下に減っているかもしれない、と言われています。
理由は、コンビニに商品を運ぶための長距離トラックの運転手が激減しているからです。
過酷な労働条件と時給の低さの中で、若い人たちが運転手になりたがらず、コンビニに商品を届けることができなくなる、と。
コンビニは英語のコンビニエンス、訳すと便利、という意味です。
しかしその便利さは、過酷な運送業界の犠牲の上に成り立っているのだ、ということを最初にお話ししたいと思いました。
「便利」なことはよいことだ、と私たちは考えます。
しかし便利を追及するあまりに、私たちは自分でも気づかないうちに、大切なものを踏みつけているということがあるのです。
今日の聖書箇所では、イエス様の「宮きよめ」というできごとが語られています。
じつはその背後にも、便利さを追い求めて神の家を商売の場所にしてしまった、巡礼者たちの姿がありました。
14節から16節をもう一度ご一緒に読んでみましょう。
「そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、
宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。
『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」
私たちは、このできごとを通して、イエス様が両替人や商売人たちに対して怒りを向けておられる、と考えがちです。
しかし彼らの商売は、現代風に言えば、「巡礼者たちの多様なニーズに応えるため」のものでした。
商売というのは需要と供給のバランスの上に成り立っています。
両替人たちが神殿の中にいるのは、神殿の中で両替を扱ってほしいと望む人々がいるからです。
牛、羊、鳩の商売人たちもまたしかり、神殿の中で、いけにえの動物を売ってほしいと望む人々がいるからです。
それはどんな人々でしょうか。言うまでもなく、ユダヤ国内外から、エルサレム神殿へいけにえをささげにきている、巡礼者たち本人です。2.
当時流通していたローマ貨幣には、ローマ皇帝の肖像が彫られていました。
神にささげるお金にローマ皇帝の顔が描かれているのはふさわしくない。
そう考えた祭司たちは、ローマの貨幣をユダヤの貨幣に両替して神殿にささげるように決まりを作りました。
すでに当時銀行がありましたが、わざわざ銀行へ行って両替する手間を省くために、神殿の中で両替するということが始められました。
巡礼者が神にささげる動物のいけにえも同じです。
わざわざ自分の町や国から連れてこなくても、神殿の中でお手軽に買うことができるようなシステムが生み出されました。
それは祭司のためでしょうか。商売人のためでしょうか。確かに祭司にも商売人にも少しメリットはあったでしょう。
しかし一番メリットを受けていたのは、巡礼者たちです。
そこには、神にささげる動物を、傷がつかないように大事に大事に故郷から連れてくるという面倒な手間をかける必要がありません。
できるだけ楽に、少しくらい値が張っても、神殿の中で手に入れることができるという利点がありました。
一度スマホに慣れてしまったら、たとえ割高でも今さらガラケーには戻れないとある人が言っていました。
それに頷くかどうかは別として、イエス様が憤りを向けられたのは商売人や両替人だけではありません。
もちろん神殿祭司だけでもありません。父なる神の家を商売の家にしてしまったのは、他ならぬ巡礼者、礼拝者たちそのものです。
両替人や商売人が店を広げていた場所は、神殿の中でも「異邦人の庭」と呼ばれるところでした。
「異邦人の庭」とは、神殿の中に入ることができない外国人たちが、唯一遠くから礼拝をささげることが許された場所でした。
ユダヤ人の巡礼者たちには、その場所の大切さがわかりません。彼らは、神殿の中に入ってそこで礼拝をささげることができるからです。
だから異邦人の庭が、自分たちの利便性のゆえにそこでいけにえが売り買いされていても、何も問題も感じません。
しかしイエス・キリストは違いました。
いつも主イエスのまなざしは、疎外されている人々、虐げられている人々が見ているものと同じものを見つめています。
礼拝をするためのその場所で、商売がなされているために、礼拝をささげることができない。
その単純なことに気づいているユダヤ人は、弟子たちを含めて一人もいませんでした。
しかしイエス様は違います。私たちが気づかないものにも目をとめ、私たちが怒りの声を上げるべきものに対して憤ります。
3.
私たちもイエス様と同じ眼差しをもっていきたいと心から願います。しかし覚悟しなければなりません。
それは、人々からほめられることも尊敬されることもなく、むしろ敬遠され、敵視される道に繋がっているからです。
神が犠牲をもってユダヤ人の先祖たちを救ってくださったことを記念する過越の祭りを、文字通り楽しい「お祭り」にしてしまいました。
神殿祭司、商売人、両替人、そして巡礼者たち自身が、長い時間をかけて、このお祭りを居心地の良いものへと変えていきました。
しかしイエス様は、そのような風潮に対してノーを突きつけました。
たとえそこに何十万人集まってきたとしても、異邦人の庭を占拠して礼拝の機会を奪っている彼らは、神殿を強盗の巣にしてしまったのだ、と。
イエス様の時代、過越の祭りは、人が得をする場所になっていました。
商売人や両替商にとっては、年に一回の稼ぎ時です。祭司たちは、彼らの稼ぎから自分たちもおこぼれをもらいます。
巡礼者たちは、ささげる貨幣や動物をそこで便利に手に入れて、礼拝そのものは適当に済ませ、あとは祭りを精一杯楽しみます。
礼拝の場所を奪われた異邦人たちも、それに慣れてしまい、礼拝よりも祭りを楽しむということが目的になってしまっていたことでしょう。
しかしそこには、一時的な楽しみはひしめいていても、永遠のいのちへの道は閉ざされてしまっています。
救いへと続く道への入り口は、ただ神の前にひざまずき、神のことばの前に耳を傾ける、礼拝以外にはないのです。
礼拝を通して、私たちは、この世への執着から断ち切られ、神と共に永遠に生きることのできる幸いへと心を向けるのです。
今、私たちは自分自身がどのような思いで教会に集まっているのかを振り返りましょう。
前奏から後奏に至るまで、礼拝の式次第の一つひとつには、意味があるのです。
罪を悔い改め、神に感謝をささげ、自分の願いではなく神のみこころがなるようにと求めていく、恵みのみわざであふれています。
礼拝を通して、私たちは罪を示されます。
礼拝を通して、悔い改めに導かれます。
礼拝を通して、赦しの確信をいただきます。
礼拝を通して、再びこの世に向かって歩み出す力を受け取ります。
宮きよめで表されたイエス様の憤りは、礼拝の営みを通して神がどれほど私たちを慈しんでくださっているのかをはっきりと示しています。
ひとり一人が、この礼拝に集えたことを喜び、これからの一週間も恵みをかみしめていきましょう。