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2017.3.19「いま救ってください」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章12-19節 

1.
 イエスを先頭に向かう小さな群れは、エルサレムに近づくにつれ、大きな行列となっていきました。
それを見たある者は上着を道に敷き、ある者はしゅろの枝を手に取って、そしてすべての者が口をそろえてこう叫びました。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」。
「ホサナ」とは、「いま、救ってください」という意味です。
群衆は、イエス・キリストを主とあがめ、ホサナの叫びは、地を揺るがす大合唱となりました。
その中には、一度死んだラザロがイエスによってよみがえった姿をはっきりと目撃した人たちがいました。
噂が噂を呼び、人々は今すぐにでもイエスがその不思議な力を使ってローマ帝国の支配から我々を解放してくださるのだと歓喜しました。
自分たちの立場を守ろうとしていたパリサイ人たちは、イエスを黙らせるためのすべての計画が一切失敗したことを認め、頭を抱えました。
そしてイエスのまわりの十二弟子たちは、おそらく裏切り者のユダを除き、みな誇らしげな表情を浮かべていたことでしょう。
しかしイエス・キリストご自身の心はどうだったのでしょうか。
 このエルサレム入城と呼ばれるできごとは、新約聖書に四つある、すべての福音書に記録されています。
しかしどの福音書も、このときイエス・キリストがろばの子の上でどんな表情をしていたのかは明らかにしておりません。
自身と誇りに満ちた表情を浮かべていたのか。優勝パレードのように群衆の叫びに笑顔で答えていたのか。
すべての福音書がイエスの表情に沈黙する中で、ルカの福音書だけは、イエスの表情ではなく感情についてこう記しています。
「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。
『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている』」(ルカ20:41,42)と。
間違いなく、このときイエス・キリストの心には誇りや期待ではなく、悲しみ、そしてむなしさがありました。2.
 確かに人々は「ホサナ、いま救ってください」と叫んでいました。
しかし彼らの考える救いとは、ローマの支配から自由になるという政治的解放でしかありませんでした。
わずか十数名の行列が数千数万に膨れ上がっても、その中で本当の救いを理解しているのは、弟子たちを含めて一人もいませんでした。
事実、「いま救ってください」と叫んだこれらの人々は、イエスが無抵抗で逮捕されると、今度は「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。
「いま救ってください」と叫びながら、救いが分かっていなかった群衆。
この日には諸手を挙げてイエスを歓迎した彼らは、数日後には「十字架につけろ」と拳を振り上げます。
その変わり身の早さに、私たちは嫌悪感を抱くかもしれません。しかし私たちもまた、その心は彼らに負けず、移ろいやすいものです。
愛が無関心に変わるまであまりに早く、賞賛が妬みに変わるにも多くの時間はいりません。
そして、イエス様はそのような私たち自身の心をエルサレムの町と重ね合わせて涙を流されたのです。
群衆、いや私たちは救ってくださいと叫びながら、救いが何であるかが分かっていません。
しかしそんな彼らのために、イエスは十字架の上でこう祈ります。
「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか、自分でも分かっていないのです」。
十字架の上で手足に釘を打たれ、いつ終わるかわからない苦痛の中にもだえ苦しみながら、イエスは人々のために祈ります。
十字架の上で身動きのできないイエスを嘲る群衆、宗教指導者、ローマ兵、イエスを見捨てた弟子たち、無関心を決め込む人々。
そしてその祈りは、神を信じる、信じたいと言いながらも、水の上の木の葉のようにさまよいためらい続ける私たちのための祈りでもあるのです。
私たちは、今こそホサナと叫びましょう。いま救ってください。私を罪から救ってください。
たとえ今日地上の人生が終わっても、決して後悔しない永遠のいのちを与えてください。主よ、いま救ってください、と。

3.
 この福音書を記したヨハネは、この時キリストと共にいた12人の弟子のひとりでした。
その時には、彼はなぜイエス様がロバの子になど乗っていかれるのか、想像もつきませんでした。
しかしじつはこの出来事が旧約聖書にある預言の成就なのだと、私たちに書き残しています。
15節、「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
 「シオンの娘」とは、エルサレムのことを指します。ユダヤ人の王であるイエス・キリストは、ご自分の都であるエルサレムを訪れました。
しかしこの王は戦をもたらす馬ではなく、平和の象徴であるロバの子どもに乗って、エルサレムに来られました。
ロバの子は、平和の象徴であると同時に弱さの象徴でもあります。
ロバの子に乗ってエルサレムに入られたイエス・キリストは、ロバの背から降りられた後も、弱さを貫かれました。
力によって人々を自由にするのではなく、ご自分が身代わりとなって犠牲になることで、人々を自由にする。
全人類が受けるべき罪のさばきを、自分が十字架の上ですべて引き受けることによって、罪から解放する。
そのような、弱さを貫徹する道を選ばれました。
 永遠の王が、力強い馬ではなく、頼りないろばの子に乗って入ってこられる。これはまさに、イエス・キリストの福音を象徴しています。
人々は、富を求めます。力を求めます。しかしキリストは、富でも力でもなく、十字架につけられることを通して、救いを完成されました。
後に復活のイエスに出会ってクリスチャンになったパウロは、手紙の中でこう書いています。
「キリストは、確かに弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。
私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」。
弱さを貫き、十字架にかかられたイエスを信じるとき、私たちは弱さをも誇ることができます。
その弱さは、どんな人をも受け入れ、赦し、愛する、力となるのです。
posted by 近 at 20:45 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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