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2017.3.26「イエスの懐に飛び込め」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
福音派に属する日本の多くの教会では、『成長』(いのちのことば社)を教会学校(CS)の教案誌として使っていると思います。
内容が「グレード1」(えい児科)から「グレード5」(中高生・成人科)まで分かれておりますが、この3月をもって
「グレード2」(幼児〜小学1、2年生)の聖書物語の絵を30年以上にわたって担当していた山田彰子さんが勇退されるそうです。
30年以上ということは、私が26年前に救われてCS教師の奉仕を始めた頃から、山田さんの絵を使っていたということですね。
今は『視覚教材』という別冊が販売されているので、スキャンしてパソコンでちょちょいと色を塗ればできあがりますが、
当時は3cm四方くらいの絵を四つ切り画用紙に大きく模写し、『土曜ワイド劇場』を観ながら色を塗っていたことを思い出します。
山田さんの絵は細かい線をほとんど使わないので(服の縦縞模様くらい)、模写するのが楽でした。
とはいえ色を塗るのは時間がかかり、真犯人が崖の上で白状し始めてもまだ色塗り終わらない、ということもよくありました。

5.jpg 『成長』3月26日分、尻餅をつくユダと、優しげなイエス様。

山田さん、30年以上の間、お疲れさま&ありがとうございました。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』18章1-11節 

序.
 あるテレビ番組で、何組かの夫婦を選んで、あることを実行してもらうという企画がありました。
それは何かというと、二人だけの思い出の場所で待ち合わせをしてください、というものでした。
なんだ、簡単じゃないかと最初は誰もが思うのですが、そこにこんな条件がつきます。ただし、決して打合せや相談はしないでください、と。
つまり、夫、妻それぞれで、「ここが二人の思い出の場所に違いない」と思われるところに行って、相手が来るのを待つというものです。
残念ながら予告篇だけでその結果は見ていないのですが、もし私たち夫婦がそこに選ばれたら、どこで待ち合わせるだろうかと考えました。
そして、たぶん、ふたりそれぞれが選ぶ思い出の場所は、完全に食い違う結果になるのではないかなあと思います。
妻と私が初めて出会った場所は、いまから18年前、1999年の夏に箱根で行われた、同盟教団の宣教大会でした。
私はその頃、将来の伴侶を熱心に探しておりまして、妻と出会ったときに、この人だ、と思いました。
ところが、妻のほうはまったくそのような電撃は受けず、むしろ食事の席なのに、昔足を切断した話とか始める、困った人という印象だった、と。
じゃあ妻と確実に待ち合わせすることができる、思い出の場所はどこだろう?と考えると、なかなか思い浮かびません。
しかし夫婦にとって、これは相手をどれだけ理解しているかを確認する、よいテストではないかなとも思います。

1.
 いま、イエス様と弟子たちは、最後の夜を過ごすために「園」へと入って行かれました。そこは彼らがよく会合に使っていた場所でした。
何かあったら、ここで必ず待ち合わせれば、必ずみんなと会える、そんな思い出の詰まった場所であったのかもしれません。
しかし「イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた」という2節の言葉が、心に痛みます。
ユダは紛れもなく弟子のひとりでした。思い出もすべて共有してきたはずの彼が、紛れもなくいまイエスを裏切ろうとしているのです。
ここでは「園」としか書いてありませんが、ほかの福音書と照らし合わせれば、ここは間違いなくゲツセマネの園であることがわかります。
このゲツセマネで、イエスは十字架の苦しみを父なる神に何度も叫びました。
どうかこの杯をわたしからとりのけてくださいと血の汗を流しながら祈りました。
おそらく、イエスはいままでもこのゲツセマネの園を、父なる神と真剣に祈る場所として用いていたのでしょう。
弟子たちもまたこのゲツセマネで、イエスの言葉を聞き、祈りを教えられ、師と弟子の関係を越えた暖かい交わりを受け取っていたはずです。
そこは、イエスと弟子たちとの信仰の原点とも呼べる場所でした。そしてユダもまた、その信仰をここで分かち合った者のひとりでした。
だからこそユダは、イエス様と弟子たちが最後にここで時間を過ごすに違いないと考えて、自らが先頭に立って、兵士たちを連れてきました。
待ち合わせ場所をすれ違えるような関係であったら、どんなによかったことか。
しかし三年半、イエスと弟子たちと生活を共にしてきたユダ本人が、確かにいま裏切り者として、このゲツセマネの園に踏み込んできました。
私たちは、その痛み、悲しみを少しでも理解できる者として、この聖書の記事をおぼえていきたいと思います。2.
 今日の聖書箇所は、イエス様が弟子のひとり、イスカリオテ・ユダに裏切られるという、有名な箇所です。
1節に「ケデロンの川筋の向こう側」とありますが、ケデロン川は一年の半分、すなわち雨が降る時期だけ水が流れます。
川筋というのは、水がもう涸れてしまって、川底だけが見えているような状態です。
それはまさに、このときのイエス様の心を象徴しています。かつては流れていたユダとの交わりは、いまはもう届きません。
 3節後半で、ヨハネはユダの姿をこのように述べています。「ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た」。
ともしびとたいまつが重ねて語られているのは、一見勝利者のように見えますが、じつは不安で凍えるようなユダの心を象徴しています。
ともしびをどれだけ焚いても、その上にたいまつを重ねても、彼の心は照らされることも暖まることもありません。
ともしび、たいまつだけでなく、武器も加え、さらに数百人、一説には数千人のローマ兵を預けられても、彼の心は不安に満ちています。
ユダは、イエスに促されて闇の中に出て行き、その闇からゲツセマネの園へとやってきました。しかし彼の行く先には、いつも闇があります。
ともしびのうえにともしび、たいまつにさらにたいまつをかき集めても、彼の前に広がる闇は消えることはありません。
現代の数え切れない人々が凍えています。人生の答えを失い、とりあえずがむしゃらに動いてはいても、人生の本当の目的を失っています。
しかし答えは聖書の中にあります。ヨハネがあえてユダを繰り返しこう書いていることに気づきましょう。「イエスを裏切ろうとしていたユダ」と。
弟子たちの目にも、ユダ自身の目にも、彼はすでに裏切り者です。しかしイエスの目にはそうは映っていませんでした。
イエスにとって、ユダは裏切ろうとしていた者であって、裏切った、とはまだ見ておられないのです。
思い出の場所ゲツセマネを土足で踏みにじるようなユダであっても、彼がもし方向を変えるならば、彼は光を取り戻すことができたのです。
その光とは何でしょうか。言うまでもなく、イエス・キリストの懐に飛び込むことです。

3.
 ユダを先頭に、兵士、役人たちが「ナザレ人イエスを」と叫んだとき、イエス様は「それはわたしです」と答えました。
すると兵士たちはその栄光に抵抗することができず、後ずさりして倒れました。ユダもまた、彼らとともに突っ伏したことでしょう。
そして、尻餅をつくか、顔を地面にこすりつけながら、次のイエスさまの言葉が聞こえてきたはずです。
「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」。
自分を犠牲にしても、自分にゆだねられた弟子たちを、いや、友を守ろうとするイエス・キリストの言葉、
ああ、それはまさに本来ユダに対して向けられていた言葉ではなかったでしょうか。
 これ以降、ユダという言葉はこのヨハネ福音書にはいっさい出てきません。
ほかの福音書では、イエス様を兵士たちに引き渡した後、ユダは裏切りを後悔して首をつったと語られます。
しかしヨハネはあえてユダの姿をこれ以降まったく語りません。そこにははっきりとした意味がこめられています。
 ユダはともしびとたいまつをこれでもかというほどにかざして、自分の闇を消そうとしました。
しかしキリストのふところにもう一度飛び込む以外、彼の闇を消す方法はないのです。
懐に飛び込む道を選ばなかったがゆえにユダは闇に飲み込まれ、そのまま歴史の闇の中に消えていったのです。
しかし私たちは違います。たとえ私たちがどんなに失敗を重ねたとしても、たとえ許されようもない罪を犯してしまったということがあったとしても、
私たちが悔い改め、イエス・キリストのふところへと飛び込むならば、永遠のいのちの光が、この心の中に確かに生まれるのです。

結.
 イエス様は、私たちの罪を完全に解決する方法をご存じです。
それは、父なる神がイエスに与えられた、苦しみの杯をすべて飲み干すことでした。
具体的に言えば、十字架から決して逃げることなく、十字架にかかるために自らからだを差し出されました。
弟子のひとり、シモン・ペテロは、剣を振り回して抵抗して、イエスをその場から逃がそうとしました。
これは、神のみこころを考えようとせず、自分の力で敵を突破しようとする、私たち自身の姿でもあります。
心をかたくなにしてイエスから離れていったユダも、手にした剣に依存して活路を開こうとするペテロも、私たち罪人の姿にほかなりません。
しかしイエスはペテロにこう言われました。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」。
人生の活路は、自ら握る剣から手を離し、ただイエス・キリストの後ろに隠れることしかありません。
イエス・キリストは、十字架の苦しみという杯をすべて飲み干してくださいました。その杯の正体は、私たちが受けるべき罪のさばきです。
しかしイエス様が、私たちの身代わりとしてそれを飲み干してくださったことで、それを信じる者たちの罪はすべて赦されています。
イエス・キリストの苦しみは、ユダのため、ペテロのため、信じる私たちひとり一人のためです。そのことを信じて歩んでいきましょう。
posted by 近 at 18:09 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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