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2017.4.2「たとえピラトであっても」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
神学生の頃に通っていた教会の主任牧師であったキム先生は面白い方でした。
思いついたことはすぐに始めてしまう、韓国人の典型みたいな人でした。(悪口ではありませんよ)
ある週のこと。「今日は教会史から人物説教をします」と、アイルランドからヨーロッパ各地へ宣教した聖コルンバヌスについて語り始めました。
しかし40分過ぎてもコルンバヌス、なかなかアイルランドから出て行きません。
そろそろ会衆の集中力も限界に達したかと思われたその頃、「では、続きは来週」と、適用のかけらもないまま説教を閉じてしまいました。
私を含めて三人いた神学生はみな唖然。現在それぞれが同じ教団で牧会していますが、集まるたびにこの話が出てきます。
そして翌週、キム先生は何事もなかったかのように、講解説教に戻っていました。
あれから17年。「続きは来週」こそありませんが、長い聖書箇所を強引に区切って、説教が不鮮明になってしまうことはよくあります。
今回の説教も、人間的にはそんな反省しきりです。しかし神が欠けを満たしてくださることを信じて、次も語ります。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』18章28-40節 

1.
 「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」。
ご存じ、『使徒信条』の一節です。
私たちを含めて、多くの教会の、毎週の礼拝で唱えられている『使徒信条』。
その中で、イエスの母マリヤとともに名前をあげて唱和されているのが、一番弟子ペテロでも、使徒パウロでもなく。
よりによって、このポンテオ・ピラトであることは皮肉と言えるかもしれません。
使徒信条でポンテオ・ピラトという名前が唱えられるのは、イエス様の誕生、受難、そしてよみがえりが、
決してクリスチャンが作ったおとぎ話ではなく、人類の歴史の中で確かに起こった出来事であることを示すためだと言われています。
ポンテオ・ピラトは、紀元26年から36年までの10年間、ユダヤ総督として実際に赴任していたことがわかっています。
この聖書箇所、ピラトがイエス様に対面した時期は、その10年間のちょうど真ん中くらいではなかったかと推測されます。

 イエス様を処刑しようとする大祭司カヤパは、夜中に不正な裁判を開き、偽の証言を使ってイエス様を死罪にあたるとしました。
しかしローマの属州であったユダヤでは、たとえ犯罪人といえども、処刑するためにはローマ総督の承認が必要でした。
できるだけ早くローマの裁判を受けさせて処刑するため、彼らは夜が明けきらぬうちに総督ピラトのところへとイエス様を連行しました。
ところが外に出て来たピラトが、「あなたがたはこの人のために何を告発するのか」とユダヤ人に尋ねても、彼らは正面から答えようとしません。
「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう」。
ピラトはこの言葉を聞き、ピンと来たはずです。これはただの内輪もめではなく、裏に何かが隠れている、と。
ちょうどその時は、過越の祭りの直前でした。過越の祭りは決してただの宗教行事ではありません。
ユダヤ国内だけでなく、世界中に散らされたユダヤ人数十万人がエルサレムに集まってきます。
このとき、普段はカイザリヤというローマ風の町に常駐しているローマ総督は、エルサレムの総督府に滞在します。
そしてエルサレムに派遣されているローマ兵の数も一時的に増員されます。
過越の祭は、ユダヤ人は神に選ばれた民で、ローマに従うことなどあり得ないという民族的不満が一気に爆発しかねない一週間でもありました。
その過越の祭の直前に、訳ありの犯罪人がわざわざ明け方に連れてこられる。それはピラトにもことの重大さを意識させたに違いありません。2.
 そのような緊張状態の中で、ピラトはユダヤ人たちが告発してきたイエス・キリストと向き合うことになりました。
ピラトは、イエス様に対して開口一番、「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねました。
そしてそれ以降の質問も、イエスがこの世の王国の支配者なのかということに集中しています。
ピラトの関心は、目の前のイエス・キリストが、ローマ帝国にとって有害かそうでないか、その一点だけです。
残念ながら、彼は真理を求めていた求道者ではありませんでした。関心のある事柄は真理ではなく、自分の立場を守ることだけでした。
彼の願いは裁判官として正義を追求することではありません。
これから始まる一週間の過越の祭のあいだ、ユダヤ人たちが余計な騒ぎを起こすことなく、平穏な一週間が過ぎることです。
その意味で、ピラトは決して特別な人間ではありません。二千年前の人物でありながら、まるで現代人の象徴のような人物です。
彼はイエス・キリストが語る真理への呼びかけを理解できません。イエス様との会話の中で、自分の欠けを意識することもありません。
それは、福音に興味を示さず、救いに無知であった、かつての私たち、そして今を生きている多くの人々の姿そのものです。
しかしたとえそうであっても、イエス様はそのピラトの質問に答えながら、会話を繰り広げた姿がここには描かれています。

 ピラトの考え方を一番表していることばは、イエス様に向けた最後のことば、「真理とは何ですか」という問いかけでしょう。
イエス様に質問しておきながら、彼はその答えを待つことなく、外にいるユダヤ人のところへ行ってしまいます。
「真理とは何ですか」。これはむしろ、「何が真理か」と訳したほうがよいかもしれません。
ユダヤ人の内輪もめで捕らえられている目の前の男が、どの口で真理などとほざくのか、ということです。
ピラトがイエス・キリストに罪を認めないと言ったのは、その人格に敬服したというよりは、ローマを脅かすことはない無害な人物、という程度です。

3.
 しかし私たちは、そのピラトにイエス様がどれだけ言葉を尽くしてご自分を証しされたのかということをおぼえましょう。
イエス様は彼にこう言われました。
「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
ここでイエス様は「生まれる」という言葉と「来る」という言葉を使い分けて、ご自分について語っておられます。
「生まれる」は私たちと同じ、人としてのからだをもってイエス様がこの地上においでくださったということ、
そして「来た」という言葉は、たとえ同じ人間のように見えても、そこには神としての力と権威をもっておられることを証ししています。
ピラトには、それはわからなかったでしょう。事実、この言葉に何度も出てくる「真理」という言葉を彼は鼻で笑いました。
しかしユダと同様、イエスの前には救われなくてもよい人間などひとりもいないのです。裏切ったユダに対してもイエス様は両手を広げました。
保身のことにしか興味がないピラトに対しても、もし手が縛られていなければ、イエス様はやはり両手を広げていたことでしょう。
私たちクリスチャンが語る福音の言葉は、人々には届かないように見えます。その中で疲れ果ててしまい、口を閉ざしてしまいます。
しかしキリストがピラトにさえ、決して唇を閉じなかったことは、心の中に刻みつけましょう。
主が語ることを諦めておられないのに、私たちから諦めるわけにはいきません。
主が口を閉ざしておられないのに、私たちから閉ざすわけにはいきません。
6週間の四旬節もいよいよ残り三分の一となった今日、私たちはもう一度イエス様の愛の招きを覚えていきましょう。
posted by 近 at 14:42 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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