この数年間、当教会では新会堂について祈り求めておりまして、私も時折インターネットで不動産情報をチェックしております。
すると教会から10キロほど離れた「月岡温泉」に廃業した温泉旅館を発見。なんと破格の980万円です。
「おすすめコメント」に「月岡温泉街の通り沿い」としか書いていないところに、なんとも

大広間で礼拝をささげた後は温泉にゆっくり浸かり、その後は各客室に分かれて分かち合い。ああ夢は広がります。
あるいは大浴場でメッセージとか。説教が終わるまで30分、語る方も聞く方も湯船から出られません。これは冗談です。
温泉が引けるかどうかはわかりませんが、とりあえず維持管理が大変ですね。しかし魅力的なのはこの価格。
クリスチャンの方は、セカンドハウスとしていかがでしょうか。その際はときどき当教会にも貸してください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』1章3-14節
1.
もう10年以上前ですが、礼拝説教の奉仕である教会を訪問したときのことです。
礼拝が終わって、それぞれと挨拶を交わしていたとき、ある姉妹から、「先生に話を聞いてもらいたい」と言われたことがありました。
その教会は、その直前にある事情で教会が二つに割れ、そして新しい牧師が来てまたひとつになったという教会でした。
相談がありますと言ったひとは、一度教会を去り、そしてまた戻ってきた姉妹でした。彼女は言葉を選びながら、こう言いました。
「戻ってはきたものの、一度は教会を出たという事実は消えません。また元通りになるまでには時間がかかります。
今の教会に私の居場所はありません」。私が何と答えればよいか言葉を探していると、彼女はこう言いました。
「でも居場所なんかいりません。この教会にイエス様さえいてくだされば」。
彼女は何を相談したかったのでしょうか。確かに彼女は苦しんでいました。でも悩んではいません。なぜなら答えをすでに持っていたからです。
あれは彼女の信仰告白だったのだ、と思います。そしてあんな力強い信仰告白は、それまでも、あれからも聞いたことがありません。
この教会に自分の居場所はいらない。ただ神がいてくだされば、私の居場所などいらない、と。
今日の聖書をかみしめているなかで、このできごとがなぜか鮮明に思い出されてきました。
復活したイエス様は四十日後、天へと上られるとき、弟子たちに次のように命じられました。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」。
それはこのエルサレムで、やがて弟子たちに聖霊がくだるからでした。しかしすぐにイエス様はこう言います。
「聖霊を受けるとき、あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。
確かにエルサレムにて聖霊はくだる。しかしその恵みはエルサレムにとどまらず、エルサレムを飛び出してユダヤとサマリヤ、地の果てにまで。
これが、私たちに与えられている信仰です。たしかに私たちは教会にその地名をつけます。
豊栄キリスト教会、新発田キリスト教会、村上福音キリスト教会、といった具合に。
しかし教会が名前に地名をつける目的は、その町の人たちが救われることだけではありません。地名は縄張りではなく、出発点です。
どんなに偶像にあふれた町であろうとも、そこに教会があるならば、福音はその町から出発し、地の果てにまで宣べ伝えられます。
教会は、私たちがそこに居心地の良さを感じながら閉じこもる、私の居場所ではありません。隠れ家ではなく、発射台です。
私たちは聖霊を受けて、救いをもたらす福音をここから地の果てにまで持っていきます。あの姉妹が、私に教えてくれたことです。2.
イエス・キリストが天に昇られていくさまを、弟子たちはどれだけ長い間、見上げていたのでしょうか。
そんなことを考えずにはいられない、御使いの言葉が心に突き刺さります。
11節、「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。
あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」
「ガリラヤの人たち」と御使いは言います。当時、人間の世界では「ガリラヤの人」は役に立たない田舎者、というニュアンスがありました。
まさか御使いからそのような言葉を聞く羽目になるとは!しかしあえて御使いは、ガリラヤという言葉を使ったのではないでしょうか。
先日、ある大臣が「東北で良かった」という失言によって、政府与党が賢明に火消しにまわるというできごとがありました。
エルサレムだのガリラヤだの、首都圏だの東北だの、人がいるかいないか、中央に近いか辺境かで、人間はその地域の重要性をはかります。
しかし聖霊を受けたキリスト者にとっては、「天」でさえも、もはや仰ぎ続ける場所ではない、ということはなんと驚くべき言葉でしょうか。
すでに天には私たちの場所が用意されています。だからこそ私たちは天をいつまでも見上げている必要はないのです。
見つめるべきは、天でもなく、地上のエルサレムでもなく、いつも共にいてくださるイエス・キリストです。
天にはすでに報いが用意されています。だから私たちはこの地上で命ある限り、キリストを証ししていきたいものです。
殉教者、すなわち信仰のゆえにいのちを落とした者を英語で「マーター(martyr)」と呼びます。
このマーターは、もともとギリシャ語で「証人」を意味する「マルトゥス」から来ています。証言することは殉教することを意味していたのです。
今日、証しすることによって会社や地域の中で孤立する、あるいは人間関係に支障をきたす、と考える人がいるかもしれません。
しかしそれが何だというのでしょうか。キリストの苦しみとは、親戚とのつきあいが難しくなるとかその程度のものだったでしょうか。
違うでしょう。しかしそれでも私たちは恐れます。証人として死を覚悟することなど私にはできない、と。
そう、私にもできません。だからこそ、私たちには聖霊なる神の力が必要なのです。
私たちは小さな器にすぎません。いや、器などというきれいなものではなく、地をはいつくばる虫けらにすぎないのかもしれません。
だが虫けらは短い一生の中に、人間が驚くほどの距離を進んでいくのです。
私たちにとって苦しみの地であろうとも、そこに語るべき人々が待っている地が、それぞれにあるはずです。
しかしそのためには聖霊の力を頂かなければなりません。だから彼らは、みな心を合わせ、祈りに専念しました。
結.
人間的な想像力を働かせれば、そこは信者のごった煮と言えるようなところだったでしょう。
イエスの母マリヤがいました。またマリヤとヨセフの間に生まれた、イエスの弟たちがいました。そしてもちろん十一弟子たちもいました。
しかし彼らはもはや党派心やだれが一番えらいかということには支配されません。彼らはみな心を合わせ、祈りに専念していた、とあります。
教会はともすれば、人間関係のもつれで思いがばらばらになってしまうことがあります。
みなが救われた時に聖霊を受けたはずなのに、どうしてこうも一つになれないのだろう、とため息をつくことすらあるかもしれません。
しかし聖霊は、私たちが仲良くなるための調整役ではありません。みことばを伝えていくために力を与えてくださるお方です。
教会に居心地の良さを求めるならば、自分と考えが違う人はその居心地の良さをかき回す存在として見えてしまいます。
しかし教会を居心地の良さではかるのではなく、ここを出発点としてみことばを伝え、その恵みを分かち合うところとして受け止めましょう。
そうすれば、自分と考えが違う人こそが、内にこもりやすい私に刺激を与え、交わりの喜びを深めてくれる存在だということに気づくでしょう。
ひとり一人が、ここを出発点として、救いのみことばを伝えていく者として歩んでいきたいと願います。