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2017.5.14「さあ、神の期待に応えて」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週、聖書考古学特別講演会のアピールをしましたが、一枚だけ勝手に写真を披露します。

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テーブルの上に所狭しと並べられた、これらの土器のかけらはすべて実際に発掘された本物だそうです。
イエス・キリストの時代に使われていた燭台に実際に火を点してみるという実演もありました。
燭台そのものよりも、マッチのほうになかなか火がつかなかったのはご愛敬。
聖書考古学のすばらしさを味わうことができた集会でした。週報はこちらです。

聖書箇所 『創世記』1章26-27、2章4-15節 

1.
 最初に26節のことばをもう一度お読みします。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」。
ただひとりのお方である神が、「われわれ」と言われるのはおかしいと思われる方がいるかもしれません。
これは、旧約聖書に使われたヘブル語特有の表現で、威光の複数形と呼ばれます。神は誰かと相談して人間を創造したわけではありません。
しかし「さあ人を造ろう」と訳された言葉を心に留めましょう。
ここには、私たち人間に対する、神様からのあふれんばかりの期待が込められています。
神様が天を作り、大地を作り、太陽と月を作り、植物を作り、動物を作ったのは、最重要なものから作っていったのではありません。
人間が生きるために必要なものはすべて準備した。さあ、いよいよ人間を造ろう。
こういう風に考えるのはあまりにも人間的すぎるでしょうか。いいえ、神様にとって、人間は天空や大地よりも重要なものだったのです。
空気も水も食物もないところに人間を造っても生きていけません。だから神様はそれらを先に用意して、最後に人間を造りました。
真っ先に造りたかった、すなわち神様の創造の中心は人間そのものにありました。
 その証拠は「さあ」と訳された言葉だけではありません。それに続く、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」もそうです。
あらゆる被造物の中で、神がご自分に似せて造られたのは、人間だけです
すべての生き物に力を与える太陽の光よりも、神の愛と輝きを現しているものを、神は人間の中に造ってくださいました。
満月の夜の平安よりも、神が与える平安を表しているのは、人が神のすばらしさを味わうときの安らぎです。
私たち人間の中には、神の期待が詰まっています
確かに最初の人間アダムとエバは罪によって堕落してしまい、彼らの子孫にあたるあらゆる人間は、罪人として生まれてきます。
しかしそれでも神は罪人である私たちが信仰によって救われて、もう一度全身全霊をもって神の栄光を表すことを期待されているのです。
「さあ、人を造ろう」。この言葉を、神様から呼びかけられた私たちひとり一人への愛の呼びかけとして心に受け止めましょう。
 鎌倉時代の西行という僧は、伊勢神宮を参拝したときにこう歌いました。「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
どんな神様がいるかはわからないが、ここにいるだけで感じられるありがたさに涙がこぼれてくる、そういう意味です。
しかし私たちは神様がどんな方か、知っています。そして私たちひとり一人を作り、期待しておられるお方であることを知っています。
だから私はあえて西行の歌を盗んで、こう歌います。「このものになにができるか知らねども かたじけなさに涙こぼるる
私たちが自分をどう評価しようとも、神様は私たちひとり一人に期待をもって、造ってくださったことを心に刻みつけようではありませんか。2.
 今、平日に求道者の方々と聖書を学んでおりますが、そのテキストに使っている本の中に、面白い資料が載っていました。
それは、体重70キログラムの成人男性は、どんな物質からできているか、というものです。
科学的に分析すれば、70kgの体のうち、水が約50kg、炭水化物が約12kg、カルシウムが1.4kg、リンが700gといった具合です。
そして、これらの物質を、薬局やホームセンターの肥料コーナーに行くと、全部買っても1000円もしない、というのです。
面白いと思いませんか。人間を物質として見たら、1000円以下の価値しかないのです
誰もがうらやむ美しい顔とか、むきむきの筋肉などというのは、とどのつまり1000円足らずの栄養素の組み合わせでしかありません。
それなのに、ある人は化粧品に何万円、美容整形に何十万円とお金を使い、またある人はこんな顔に産んだ親を恨み、塞ぎ込む。
面白い、を通り越して、むしろ愚かとしか言いようがありません。
人間は、「神のかたち」に作られたからこそ、あらゆる被造物の中で圧倒的に尊いものです。
しかし霊であり、肉体をもたない神が、人間をご自身のかたちに似せたとは、この1000円足らずの肉体のことではありません。
神のかたちは、外の肉体にではなく、内側の心の中にこそあるのです。そしてその内側にある神のかたちが、私たちに価値を与えているのです。
 今、日本における年間自殺者数は約3万人と言われます。今もどこかで、20分にひとりの割合でだれかが自ら死を選び取っています。
最近は自殺と言わず、自死と呼ぶようになっているようです。自死もすべての人に与えられた当然の権利だとも言われます。
しかし私たちが自分のことをどれだけつまらない者だと思っても、神はいったいどれほどその人を期待しておられ、愛しておられることでしょうか。
2章7節にはこうあります。「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」。
「形造り」と訳されている言葉は、他の被造物に対して用いられている「創造した」という言葉とは違う、ヘブル語が使われています。
それは陶器師が、自分の才能のすべてを尽くして、土を何度もこねながら、土の器を作り上げるときに用いられる言葉です。

3.
神はことばだけで自然や動植物を造ることのできるお方です。光よあれ。その言葉だけで光ができました。
しかし人間に対しては、まるで陶器師が特別の土を探して美しい器に作り上げるかのように、特別の愛情をもって造ってくださいました。
神が人を土から造り、その中に息を吹き込まれた、と聖書は語ります。
人間は、神の息を吹き込まれた最も気高いものであり、同時に小さな衝撃でも割れてしまう、最も脆いものでもあります。
神から離れては何もできません。それが私たちクリスチャンに共通する信仰告白です。
ある人は、神に頼らなければいけない人生など弱虫の生き方だと言います。自分の力で未来を切り開くことが、本当の人間だとも言います。
しかし神にゆだねる人生とは、決して現実逃避や思考停止ではありません。
自分の限界を知りながら、しかし神の期待に答えていこうとする。そこには責任が伴います。決して現実逃避ではありません。
 15節にはこのようにあります。「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
神は人間に、この世界の管理者としての使命を与えられました。人は、与えられた仕事を通して、神の栄光を表していくことができます。
最初に造られた人アダムは、エデンの園を正しく管理するという使命に生きることで、神の恵みに応答していったのです。
神にゆだねるとは、すべてを神に任せて、あとは何も努力しないということではありません。
神を信じる者は、それにふさわしい責任を自覚し、果たしていこうとします。
神は人間を土から造り、いのちの息を与え、本当の意味で生き物としてくださいました。
人間は自分のもろさを自覚する中で、それでもいのちの息を与えてくださった神に感謝し、精一杯その恵みに答えようとする。
エデンの園においては、地を耕し、守っていくことが神の恵みに答えていくことでした。
そして今の私たちにおいては、お互いを兄弟姉妹と認め合いながら、相手の欠けたところを補い、互いに仕え合うことです。
礼拝の中で神のことばを受けて力をいただき、その喜びを自分の家庭、社会へと持ち帰り、恵みを証ししていくことです。
ひとり一人が、今日受けた神のことばをかみしめながら、この一週間も歩んでいきましょう。
posted by 近 at 10:12 | Comment(0) | 2017年のメッセージ
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